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2024年音楽ベスト12!

2024年のベスト音楽を決めたいと思う。


はじめに

音楽を、これを聴きたいと思い、聴くことが、いつのまにやら、減ってしまった。CDを買って、それをひたすらに聴いた日々は、どこにいったのだろうか。


サブスクリプションに入って、音楽を聴くようになったかというと、そんなこともない。今は実家の自室に帰っていて、クローゼットに入っている、懐かしいCDたちを眺める。


とはいえ、音楽なんてもう聴きたくない、と思う時期があったのは確かである。CDからサブスクリプションへ変化したことによって、音楽を聴かなくなったのではなく、自分で自ら、扉を閉めたのである。


音楽の扉を開けよう

コロナ禍あたりから、音楽を、まったく聴かなくなった。正確には、POPソングのようなもの、クラシックもそうなのであるが、メロディがある音楽を、人工的につくられた音楽を、聴くことができなくなった。


それが、今年に入って、どんな音楽でも、聴くことができるようになってきた。それも、十分に、楽しむことだってできるようになったのである。


サブスクリプションの機能で、2024年に聴いた音楽の100選を表示してくれる。そこから、ベスト10を、2024年のことを振り返りながら、書いていきたいと思う。(結果として12曲を選んだ)。


まずは、どんな音楽を聴いていたか、挙げていこう。


・aqua - 坂本龍一

・魔訶般若波羅蜜多心経 - 大本山永平寺

・念佛 添引和讃(そえびきわさん) - 西本願寺

・Had to improve – オディッシー

・Fortnight – テイラースウィフト

・ヨハネ受難曲 – バッハ

・弦楽四重奏のための緩徐楽章 – ヴェーベルン

・ケツメイシ – 一日

・安全地帯 – 反省

・I had some help – ポストマローン

・Requiem – モーツアルト

・まきびとひつじを – BCTCworkship


・aqua - 坂本龍一



坂本龍一の「aqua」は、ピアノを弾こうと思って、よく聴いていた。楽譜を買って、コンビニでコピーをして、家で弾いていた。まだ全部弾けるようになっていないまま、放っておいてある。坂本龍一の最後の日々を描いたドキュメンタリー番組も、観た覚えがある。そうして、彼の最後のアルバムも、聴いてみたことがある。彼の最後の寝室に、常に「簡単に音がなるもの」が置いてあって、それが仏具であったのが、印象的であった。そのアルバムの中にも、仏具の音が鳴っていたと記憶する。


・魔訶般若波羅蜜多心経 - 大本山永平寺



般若心経を覚えようと思って、やたらと聴いていたので、2024年で聴いた曲のナンバーワンはこれです、とサブスクリプションは教えてくれる。メロディのある音楽を聴けるようになったとはいえ、ずっと聴いていると疲れるので、こういう「お経」を聴くと、癒される。時期でいえば、今年は、よく夏に聴いた。夏に仕事で運転しているときに、ふと何か聴きたくなって、これを流す。すると、窓から見える風景が、「あの世」のように感じる。見える風景から、「距離」が取れるのである。それに、葬式の日に、親戚が集まったあの日を思い出して、懐かしい気もする。この音源の「歌手」は永平寺で、曹洞宗だから、禅宗なのだが、禅宗も般若心経を唱えるのだなあ、などと思ったりする。浄土真宗は唱えないらしい。


・念佛 添引和讃(そえびきわさん) - 西本願寺



般若心経では短いので、南無阿弥陀仏をひたすら唱える、こちらの音源も重宝した。南無阿弥陀仏を、いろんな節? で唱えている。ちなみに、南無阿弥陀仏の意味は、「南無」が帰依する。阿弥陀は、サンスクリット語の「アミターバ」で、無量の光を意味する。光の仏様に帰依する、ということである。


・Had to improve – オディッシー



アメリカはワシントンのラッパーで、音楽機器の雑誌にインタビューされていたので知った。Hiphopであるが、知的な雰囲気の見た目で、聴いてみると、よかった。今年に発売された「アルバム」でもっともよく聴いたものだ。彼の音楽を通じて「現代」というものを、感じることができたように思う。ジャケットのデザインから、曲の作り方から、PVやファッションの飾らない感じなどである。このように、サブスクリプションの「おすすめ」ではなく、雑誌などで知って聴いてみる、という自分から発見する、ということによって、音楽は「特別」な出会いになるのだろうと思う。


・Fortnight – テイラースウィフト



聴いていると切なくなる。これは彼女の感情なのだろうか。私の感情なのだろうか。感情が溢れているのに、抑えられた表現はなんだろうか。歌われるのは、怒りなのに、癒されているのはなぜだろうか。「I wanna kill her」「I wanna kill him」。こういった強い言葉に、やさしさがともなっているのは、どういうことだろうか。

この曲と出会ったのは、数年ぶりに行った京都河原町のタワレコの試聴機で新譜のそれを聴いたのである。その後、この曲はよく宣伝されているので、近所のショッピングモールで流れていることもあったが、驚いたのは、天下一品でこってりをすすっているときに、この曲が流れてきたことである。確かに、あっさり、というよりは、こってりである。確かに。


・ヨハネ受難曲 – バッハ



今年の6月は、京都コンサートホールに、クラシック音楽を初めて聴きに行った。家から近所なので、いつか行ってみたいと思っていたのだ。バッハのヨハネ受難曲。まったく知らない音楽だった。聖書のヨハネによる福音書を歌っている。コンサートホールの後方に「字幕」が出て、ストーリーがわかってよかった。数百年前の音楽が、この場によみがえっているというのが、不思議で興奮した。この日から、クラシック音楽に対して、一定の興味を持ち続けている。


・弦楽四重奏のための緩徐楽章 – ヴェーベルン



9月には、京都文化博物館別館にて、弦楽四重奏を聴いた。モーツアルトとドヴォルザークとこのヴェーベルン。ヴェーベルンという音楽家の名前すら知らなかった。緩徐楽章も「かんじょがくしょう」と読むことさえできなかった。これは、好きな音楽となった。彼のほかのものを聴いてみると、あまりにも実験的で、聴くことはできなかった。またいつか、挑戦したいと思う。


・ケツメイシ – 一日



ケツメイシ。ここにきて。理由はある。夏のある日、「1週間、活字を禁止する」ということをしてみたのである。本を読むのはもちろんダメ。ネット記事もダメ。テレビもラジオもダメ。Youtubeもダメである。それで、許されるのは、「音楽」を聴くしかない。そうして、ひたすら音楽を聴いていたが、これといって聴きたい曲もなくなってくる。そうすると、昔聴いていた音楽を聴こう、ということになる。それでたどり着いたのがケツメイシである。中学のときに、寝る前に、ちょっとラジカセで流しながら、まどろんでいた、という時間を思い出した。

ケツメイシというのが、絶妙であって、思春期に入って、音楽に対して「批評的」になる過渡期に、私は彼らと出会っているのである。つまり、無批判的に浴びるように好きで聴いていたものが、ある時期から批判的になり、「なんやねんその歌詞、意味あれへんがな」、と言い出していく。

その音楽を、久しぶりに聞いた。そして、あえて、これを「無批判」に聴いてみた。聴いてみたのか、聴くことができたのか。そうすると、なんだろうか、ケツメイシと「和解」できたような気がした。この文章の最初に、メロディのある音楽が聴けなくなったと書いたが、このケツメイシとの和解を通じて、私はどんな音楽もすんなりと聴くことができるようになったと思う。


・安全地帯 – 反省



高校生のとき、シチューのCMで、これが流れていて、画面の右下に「♪安全地帯」と書かれていて、紙にメモをして、TSUTAYAに走ったことを、なぜだか思い出したのである。そうして、バスケ部の友達に、「安全地帯って知ってる?あのCMの歌いいわあ」と言って、「何それ!」と言って反応し、聴いてくれたことが、うれしかった記憶がある。そういう、アンテナにピンときて、聴きたくなる、という体験を、していたいものだ、という願いを持っている。


・I had some help – ポストマローン



やたらとお勧めに出てきて、それでも聴いてしまった曲。ポストマローンは、テイラースウィフトのフォートナイトの編曲をしている人である。落ち着いた歌を歌うのかと思ったら、なんというか、「むっちゃアメリカ」である。絶妙にダサいのであるが、そこがクセになる。なぜだか、高校のとき、なんばの古着屋に行った、休みの日を思い出す。新しいのか、古いのか。古いものを新しく体験できる。


・Requiem – モーツアルト



ここの記事を書くにあたって、まずはチェジュ空港の事故で亡くなられた方々の冥福をお祈り申し上げます。

さて、京都コンサートホールで、韓国の楽団が、日韓の交流記念のために来ていて、無料で聴くことができた。常々、モーツアルトのレクイエムが聴きたい、と思っていたので、私の願いが通じたのだと思うと、私個人の勝手で、わざわざ着ていただいたのは、申し訳なく思う。なんで無料なのか。やっぱり不思議で、私の思いとしか言いようがない。

レクイエムを聴けて、感無量であった。その一言につきる。


・まきびとひつじを – BCTCworkship



11月に、京都モダン建築祭で、教会に入ることができて、賛美歌などに興味を持った。ちょうど年末に向けて、クリスマス気分ということもあり、賛美歌をよく聴いた。色々聴いた中で、この曲が好きになった。Youtubeに上がっていた、動画の音源が、とてもよかった。こういういい動画には、コメントもいいものが集まるものだが、その中に、小さい息子が病院で亡くなったときに、看護師さんたちが、この賛美歌を泣きながら歌ってくれた、というエピソードが書かれていて、そのことも、この歌を聴いた私のヴィジョンを彩っている。子供が亡くなったときに、「喜びたたえよ主イエスは生まれぬ」と歌うというのは、なんという逆説で、それはどうして正しいのだろう、と思う。この「正しさ」について思うとき、私の胸はざわつき、涙があふれるのを禁じ得ない。


「死」についての音楽

図らずも、今年に聴いた曲たちは、「死」と結びつくものが多かった。けれども、私は、音楽というものは、「死」へと向かうものだと思う。それは、「生」の「全体」を包むものである。「全体」を包むということは、全体の「外」に触れることでもある。そういった全体的な、「ホーリー」な、音楽を好んで聴くこととなった、のかもしれない。


エピソードのついた音楽

とはいえ、オディッシーやポストマローンなどの、新作に触れることもできた。これらなどは、偶然によるものが大きい。というか、サブスクでおすすめされても、聴きたくないのであって、自分で探して、自分が見つけた、という「狩り」の感じがないと、聴きたくないのである。お母さんに「勉強しいや」と言われたら、「いま勉強しようと思ってたとこやのに」とやる気をなくすように、人は自由が好きなのだ。


来年も音楽を見つけに行こう

本当に、振り返ると、今年のすべての歌が、そういった特別な出会いがあるものである。エピソード付きのものでないと、私は聴きたくないのである。だから、来年も、「狩り」に出かけよう。簡単に音楽が手に入る時代だからこそ、もっと難しく、逃げる音楽を追いかけに行こう。

 
 
 

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