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『江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす』與那覇潤著を読んだ。

『江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす』與那覇潤


(1)


毎晩寝る前に映画を観るのを習慣にしていたのだが、昨日はなんだか、読書をしようという気になった。


昼間に本棚の整理をしたからだ。


本棚の整理をして、本当に今読みたい本だけのコーナーを、一番見えやすいところに作った。そうすると、本がどうしても読みたくなった。


読書をすることが、何かを学ぶための、手段となってしまうことが、多くなってしまったのは、いつからだろうか。学習参考書を購入する子ども時代からの心の癖であろうと思う。


そうではなく、読書をすること、そのこと自体が目的であるような、本当に没頭するように読めたらいい。


本棚を整理すると、私の欲望が整理されて、「いまこれが読みたい」がはっきりした。


それで本書『江藤淳と加藤典洋』を読もうと思った。


本書は実は、本棚にあったのではない、新たに本屋で買ったのである。本棚の整理をすることで、本棚の本が読みたくなったのではなく、本屋のあの本が欲しいということを知ったのである。


さて、映画の感想ではなく、読書の感想は、文書について文章に書かないといけないから、私にとって、難しい。何から書いていけばいいか。まずは、本を買った動機から書いているのはそのためである。


三島由紀夫と東大全共闘の映画を観て、戦後史に興味があったということが本書を読もうと思ったこととつながっている。


また、映画を立て続けに観ていると、歴史について、考えざるを得ないと思われたからである。その作品の背景となっている時代について知りたいというのと、各作品の点を線でつなぐ物語を描いてみたい、という欲望に駆られるのである。


私は小説をあまり読んでこなかったが、なぜだか文芸評論はすこしかじっていて、江藤淳と加藤典洋のものを、読んだことがないわけではない。


江藤淳の『夏目漱石』は読んだ。けれども、彼の戦後を通して活躍したいわゆる「保守」としての姿については思い至ったことはなかった。


加藤典洋は『敗戦後論』を読んだだろうか。何冊か読んだと思う。


いずれにせよ、彼らについて、その政治的な性格について、イメージを固まらせることなく、彼らの文章を一つの行動として、私は自分の思考を受動したことがあっただけである。


文芸批評の言葉は、私にとって、「それだけ」でおもしろいものなのである。


「保守」や「リベラル」とかいう言葉に代表される、誰もわからずに使っているレッテルを、文芸批評は補強するのでなく、読み「解いて」いくものだと思う。


それは本書の題名にある「歩きなおす」という身体経験に近い。


(2)


1976年に沖縄返還があった、などということに、なんだそうなのか、と思うだけなのだが、その当時のリアリティを感じることができるのが、文学なのだろう、と本書は教えてくれる。


年表だけではわからない、当時に生きた人々の、身体をともなった感覚を、伝えてくれるのだろう。それが本書の副題の「歩きなおす」というところと通じている。


(3)


これを書いている時点で、ようやく本書の終りまで読み通した。読んでいる印象としては、最初、読みにくいな、という感じを抱いた。筆者の文章のスタイルに、なかなかついていけないところがあった。


途中でこういうふうに間をあけて決め台詞を入れる。


そういうブログ的な文章の癖が、慣れなかった。


けれども、本書を最後まで読み通すと、そのような、文章と文章の隙間こそが、本書の「よい」特徴であると思えた。終始、筆者の考えを押しつけるようなところがなく、あくまでも読者に委ねるようなところがある。


読後は、ふと自分で考えてみたくなるような心地になった。


そう言うと私の心境を正確にはあらわしていないような気がする。


一つの物語が終わってしまった寂しさを感じた、と言う方が的を射ていると思う。


文芸評論の本を読み終わったというよりも、一つの物語を読み終わったという感じに近いが、その終わっていく物語が、空想上の物語ではなく、自分が所属している日本の「戦後」というものであるから、その寂しさは、えらく身に沁みたようだ。


本書には、様々な文学者のポートレート写真が載っている。これらの肖像が、本書の特徴を際立たせている。本書は、写真に撮って示すことのできる、「身体を持って実際に生きた人物」が、どのように戦後を生きぬき、考えて、文章を残したか、ということが書かれているのである。


政治のことを語りだそうとすると、保守だとかリベラルとか、左翼や右翼だとか、「画一的」にしか捉えることができないのは、身体を失い、観念としてそれらを捉えることに、甘んじているからであろう。


そうではなく、複雑で不合理な世界を一度、身体を通して受け入れてから、それについて話し合うということが必要だと思う。その世界を受け入れるために作品(小説)があり、それについて話し合うために批評(文芸評論)がある。


筆者は以下のように、批評について説明している。


「そもそも批評とは、なんだろう。それは世界の自明性が壊れてしまった後で、作品(批評の対象)に感じる『意味』を媒介とすることで、他者との関係を作りなおそうとする試みだと思う。」(p.223)


果たして本書はそういうものであった。自明性の低い現代社会において、確かに踏み出そうとする一歩のようであったし、私を導こうとするようで同時に、何かがあれば彼を支えなければならない握手のようでもあった。

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