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国立国際美術館の「非常の常」に行った話。

最近、美術館に二回行った。その前に行ったのが、去年だったと思うから、最近、美術館に行くことに、はまっている、と言っていいと思う。


大阪市立美術館のゴッホ展と、国立国際美術館の「非常の常」という展示。


後者は、本当は中ノ島美術館を観ようと思っていたけれど、混んでいたから行ったが、結論から言って、行ってよかったと思う。


現代アートというものを、観るという経験自体が貴重だ。


映画とかなら、新作を観に行くということが、日常で、新しい感覚を、経験できる。


けれども、アートとなると、新しいものに触れるのは、難しい。意識しないといけない。


気が付くと古典、ということになる。


まあ、古典でいいのだけれど。


ゴッホ展、よかったんだよな。


まあ、それはおいておいて、現代アートの、頭でっかちの、どうしようもなさ、というのは、必見である。このどうしようもなさ、というのは、なんなのだろうか。


人々は、白紙の中に、批評の言葉を埋めたがる、まるでポルノのように。


というポエムが印象的な展示が、最後にされていたが、はたして、現代アートは、このポルノのような言葉がなくて、存在できるだろうか。


とはいえ、国立国際美術館を出たときの、なんともいえない、空しさのようなものが、私は嫌いではないのだ。


現代美術という「無」を観ていた私の目は、中ノ島のそびえたつビルヂング群や、阪神高速道路の高架、濁った運河などを、これらもまた「無」として見てしまう。


すべての事物は、断絶された、無意味なものとして、孤立しており、世界は白紙のようなものである。


けれども、そのような白紙の上に、私はポルノ以外の何かで、十分に色づけできることを、今は知っている。


淀屋橋の欄干に手をおいて、無の色を眺めていると、人に慣れているハトやすずめが寄ってきた。


すずめの目やしぐさは、ひとなつっこく、腰をくねらせたり、首を傾げたり、舌を出したりして、彼は彼なりに、必死に「言葉をつむいで」いた。


彼は決して「無」ではない。


彼は「目にはうつらないもの」でもない。


彼は言葉であり、命であり、他者である。


彼を眺める時、私は一つの慈悲である。

 
 
 

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