『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』マックス・ヴェーバー著を読んだ。
- 三好真弘
- 2月2日
- 読了時間: 6分
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』マックス・ヴェーバー
オーディブルで聴いたが、なかなか難解であった。
・プロテスタントの分派
まず、宗教改革があって、カトリックとプロテスタントが分かれた、ということは知っていたが、本書では、そのプロテスタントについて、ルター派、カルヴァン派、ドイツ敬虔主義、バプティストなど、細かい派が書かれていて、理解が追い付かなかった。
プロテスタントと一口に言っても、様々な分派があるのだなあ、という、それを知っただけでも、ヨーロッパの歴史に対して、違ったまなざしを向けられることができるようになったのであった。
・キリスト教圏は勤労しない?
ところで、なぜ本書を読もうと思ったかというと、日本人は勤労をよいことという風に思う風潮が昔からあったが、キリスト教圏の人たちにはそれがない、ということを聞いたけれども、キリスト教圏でも、プロテスタントになると、違うのでは、と疑問に思って、調べてみたいと思ったからである。
本書自体から、読み取れたことは多くなかったが、それに付随して、解説などを調べていくと、おもしろいことはたくさん発見された。
・カルヴァン派の特異性
まずは、カルヴァン派について、理解を深められた。「予定説」なるもの。高校の世界史の授業で習ったが、ここまで後世に影響を与えているのか、と知って驚いた。
カトリックが、免罪符を出して、これを買えば罪は贖われる、と主張した。それに反発して、ルターは、自身の心の中で敬虔であれば救われる、と説いた。けれども、カルヴァンは、人間が何をしたところで変わらない、と説いた。
カトリックとルターの断絶よりも、ルターとカルヴァンの断絶の方が、深い、というのが、おもしろい。
・「救われるように決まっている人間として振る舞う」
カルヴァンは、人間が何をしても地獄に落ちるか落ちないかは変わらないと説く。神の定めを、人間が変えることはできないからである。では、人間は、何もしなくてよいのであろうか。そうではない。真面目に働くことによって、「救われるように決まっている人間として振る舞う」という、なんだかすごい発想をするのである。
ここのところがおもしろい。
頭では理解できないが、なんとなくそうしてしまうよね、という説得力というか、リアリティがある。
神とのまったき断絶によって、すっくと立ちあがる、「否定」としての神である。これは、日本の仏教の禅の「無」との関連も考えられるというのは、言いすぎであろうか。否定神学や日本の禅思想とのつながりは述べられていない。けれども、中世修道院の歴史や、ドイツ神秘主義との関連は、述べられていたと思う。
・キリスト教神秘主義の労働観
私の知識を引用すると、上田閑照の中世神秘家エックハルト研究で、エックハルトがドイツ語の説教において、聖書についての解釈を述べたところがある。聖書には、イエスが家の中で説教をしているが、その背後で、女性がひたすらに家事をしているという描写があるらしい。その箇所は、いままでは家事をすることでイエスの話を聞かない信心の浅い人として解釈されていたのだが、エックハルトは、その家事をする女性にこと、本当の信心を見出した、ということだった。
そういったところにも接続していくと思われて、興味がひろがる。
・神を女性にたとえてみる。
さて、カトリックとルターとカルヴァンについて、女性を例にたとえ話をしたらわかりやすいのではないか、と思いついたので書いてみる。
好きな女性がいて、お金をあげると付き合ってくれる人がカトリックの神で、やさしくすると付き合ってくれる人がルターの神。カルヴァンの神は、私が何をしても、変わらない、まったくの独立した女性である。そうすると、私も独立者として、必死に生きるしかあるまい。そうして、俺は気づいたら、会社でトップに上り詰めていた。なんだか、そういうストーリーって、ありそうだと、私は思うのだがどうだろうか。
・カルヴァン派の倫理と資本主義の精神
歴史的にみて、経済発展をした国は、プロテスタンティズムの国である。スペインとイタリアは、カトリックだが、経済的に遅れている。
カルヴァン派が、勤労をすることで、資本主義に向かう、時代の価値観を築いていった、ということだが、資本主義を準備する点で、他にも要素があったらしい。それは、利子や投資ということだ。
カトリックやイスラム教は、利子が禁止されていたらしい。けれども、カルヴァン派では、利子が許容された。といっても、「五分の利子」が許容された、というのが大きいらしい。この節度ある利子によって、市場のメカニズムが形成されることになったのである。
・ヨーロッパの歴史と資本主義
これ以上の整理は、まだついていない。先日、「マルクス」について本を読んだが、そこでは、エンクロージャーという、土地政策による、土地と労働者の商品化が、資本主義に大きくかかわっている、ということを学んだ。
今回のヴェーバーの本とそれに関わる解説によって、他の歴史の事情なども学ぶことができたと思う。大航海時代から発生した、株式会社という投資システム。フロンティア精神。これらに加えて、プロテスタントの勤労の精神が、交わって、科学の革命によって、産業革命とぶつかった。
もちろん、宗教革命が資本主義につながった、という単純な図式では説明できないだろうし、ヴェーバーもそのように述べてはいない。
・宗教がもたらすエートス
けれども、プロテスタントの勤労や五分の利子が、システム構築に役だったというのは、ありそうなことである。また、宗教が培う、時代の精神というもの。それはエートスと呼ばれるが、それが時代や社会に及ぼす影響の大きさについて、省みざるを得ない。
エートスは、最初は自覚的だった信心を置いてきぼりにしたまま、無意識的な慣性で動きつづける。
・現代アメリカとエートス
映画『アプレンティス』を最近観たが、そこでは資本主義の虜になっている人たちの、動きが観られた。彼らは、なぜ有名になりたいか、金持ちになりたいのか、自覚的ではない。まったく盲目的に、それらが「成功」であると信じて行動しているように見える。
他国のことだと、はたから見ていて、「滑稽」にも見え、こんな「地獄」に生きていたくないな、と思ったが、日本はどうなのだろうか、と思い返すと、背筋が寒くならなくもない。
・「無」のエートス、エートスの「無」
実は、積極的に「無」をこそ自覚することこそが日本のというか、各自のこれからの生き方ではないか、と思っているのであるが、それは、本書の感想の域をとうに超えているだろう。
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