2025年1月に観た映画。
- 三好真弘
- 2月4日
- 読了時間: 9分
2025年1月に観た映画。
1月に観た映画をまとめよう。正確には、前回書いたあとからだから、12月の末からになっている。
新作(映画館と配信のみのもの)。6本。
・ロボットドリームズ
・陪審員2番
・機動戦士Gundam GQuuuuuuX -Beginning-
・室町無頼
・アプレンティス
・トワイライト・ウォリアーズ
配信。21本。
・ポップスが最高に輝いた夜
・Cloud
・生きるLIVING
・ソウルの春
・チャレンジャーズ
・密輸1970
・生きる
・レベルリッジ
・リバティバランス射った男
・赤い河
・ファイナルカウントダウン
・ファイトクラブ
・大人は判ってくれない
・夜霧の恋人たち
・二十歳の恋
・家庭
・あこがれ
・逃げ去る恋
・ピアニストを撃て
・レニングラードカウボーイゴーアメリカ
・突然炎のごとく
さて、新作は6本観たのであった。何か書いていこう。
新作映画について書く。
・ロボットドリームズ
おもしろかった。けれども、アニメーションが、日本の物を観ているから、価値観のちがいになってしまうのだけれど、たいしたことないなあ、と感じてしまった。もっとも、この「価値観のちがい」こそが、映画を観ることでこそ得られる体験なのであろう。セプテンバーという曲も、あまり内容がある歌のような気はしない。映画館の帰りには聴いたが、その後は聴いていない。犬の無。
・機動戦士Gundam GQuuuuuuX -Beginning-
について先に述べよう。アニメーションが素晴らしくて、ずっと観ていたかった。アニメーションのバリエーションの幅広さに圧倒された。前回観たアニメがロボットドリームズだったから、余計にすごいと思ったのかもしれない。ストーリーはあまり覚えていない。だが、「アムロ」や「シンジ」というキャラが、「ガンダム」という話からも、「庵野及びカラー」という心からも、退場してしまっていた、というのがよかった。つまり、泣き虫キャラがいない、というのがよかった。うじうじしていなくて、からっとしていていい。本当に、すべてのエヴァンゲリオンにさよならしたんだなあ、と。そして、その次が始まるのだ、と。
・陪審員2番
は、素晴らしい映画だった。配信でしか見られないが、配信で観られてありがたかった。イーストウッド監督。もっと深堀してもよいと思った。
・室町無頼
苦しんでいる庶民の「生命力のなさ」が絶望的。けれども、本当にそうなのか。飢餓というところを、まるで原爆の被害のように描いているのは、よくわからない。人間は「もっと生きたい」というどうしようもない欲望があるはずで、そのどうしようもなさ、みたいなのが描き切れていない、というか、洞察が足りない、と思う。悪も善も、満ち足りたもののなかでの、プラスやマイナスといった「欲求」レベルでしか捉えられていないと思う。
・トワイライト・ウォリアーズ
商店街の鉄鍋で料理を焼く姿。これである。どれだけ絶望的な状況でも、命のあるかぎり、乗りきろうとする、人間の姿だ。人間は、光りを当てられて、形を表出するのではなく、人間は光りを放つことができるのである。この一点で、カンフーは、ファンタジーではなく、事実を描いている。もっとも、その事実こそが、大切なのである。
・アプレンティス
アメリカの地獄。
というわけで、素晴らしい新作ばかりであった。けれども、話題作ばかりを観ているのであって、もう少し、「変」な作品を、冒険してもよいのかと思う。なんというか、もっと「わがまま」に観てもいいよな、と思う。もっと自由に、観る前のフィルターをはずして、おもむくままに、観ることも、楽しいかもしれない。
配信で観た映画について書く。
配信では、21本観たのであった。年末年始に、映画を観るようになって、その勢いで、ずっと観るようになった。毎晩観るようになったのである。
平日の仕事終わりは、20時から22時まで、時間をつくって、映画を観るようにしている。他にすることがないのか、とも思うが、いまのところこれでいいとも、思っている。
Youtubeを観る代替案としての映画鑑賞
いままでは、この時間に、youtubeを観て、無為に過ごしていた、ということもあったからである。もちろん、youtubeを観てもいいじゃないか、とも思うのだが、自分の中で、もやもやした感覚があったから、youtubeを観る以外に、何か代替案を立てようということで、「youtubeを観る時間に映画を観る」ということにしたのである。
だから、「映画を観る」ということは、それ自体は消極的な行動だったのであるが、これがなかなか、たくさんのことを学ぶことになっている。
Youtubeを観てから、それを振り返るということもないし、それについての感想を共有する、ということもないから、youtubeを観るということから比べれば、生産的なことなのだろうと思う。
そもそも、人が生産的にならなければならない、とも思わないが、やっぱり、ちょっとあかんな、という陰性感情を抱いていたから、これでいい、と思っている。
映画を観ることはいいことでも悪いことでもない
本当は、映画ばかり見ていてもだめだな、とは思っている。映画を観るという、受動的なことよりも、もっと創作活動に打ち込むべきではないか、とも思うのである。20時から22時のあいだに、創作活動をするべきではないのだろうか。けれども、まあいまのところは、映画を観すぎて、どうしようもなく不幸な気分になっていないので、継続していけばよいだろうと思う。さて、映画を観ていたことは、幸福だったのか、不幸だったのか、そのことを知るために、一度観た映画を振り返ってみよう。
作品ごとの感想
・ポップスが最高に輝いた夜
おもしろかった。ドキュメンタリー映画である。ミュージシャンたちの個性が溢れている。彼らの音楽に触れてみたいと思い、聴いてみたが、琴線に触れるものが、いまのところなかった。僕の住む「学校」じゃないのかもしれない。「アプレンティス」で感じた、ここもまた、「アメリカの地獄」なのかもしれない。なんまいだぶ、なんまいだぶ。
・Cloud
黒澤清監督の作品を初めて観た。「黒澤明の息子」という嘘の知識が消えてよかった。邦画を見ると、現代を照らしだす鏡として、機能するのがおもしろい。これが「日本の地獄」かあ、と感心する。黒澤清は、おもしろかったけれど、いまのところ、はまらなかった。
・生きるLIVING
良作だった。原作よりも好きだ。原作があるから好きなのだけれど。原作よりも短いのがよくて、いかに「切るか」ということの、創作の極意をかいまみることができて、うれしい。
・生きる
というわけで原作を観た。冒頭のナレーションと胃がんのレントゲン写真は、最高。原作はコメディなのだ。黒澤明の、カメラの動きとか、いろいろ「やりすぎ」で、私が歳をとったからなのか、観ていて疲れるなあ、とも思う。どうしても、小津を思ってしまう。小津欲が湧く。
・ソウルの春
新年一発目にこれを観た。ゴスペラーズのリーダーの人と、ななまがりのボケの人が主演。すごい。けれども、なんかやっぱり、疲れたな。
・チャレンジャーズ
これも何かのまた「地獄」。しょーもなー。
・密輸1970
おもしろ韓国映画。観てもよい。観なくてもよい。
・レベルリッジ
ネットフリックス作品。いろんな映画がありますね。
・リバティバランス射った男
ジョンフォード作品。良作。思想は関係なく、監督は個人である。作品は、それを表現してしまう。魂に響いてしまう。ジョンフォード作品、もっと観ようと思う。
・赤い河
西部劇の古典。スペクタクル作品。歴史的に大事な作品である。けれども、どうしてだろうか、ハワードホークス監督の作品は、私にとって「いつも眠い」。独特の「軽さ」と言っては誉め言葉になるだろう。私にとって、そのギャグはいつも分からない。
・ファイナルカウントダウン
なんだこれ。
・ファイトクラブ
2000年の地獄。
・大人は判ってくれない
この作品を観たのを機に、トリュフォー監督に惹かれていった。今年の1月はトリュフォーの月だったと言っていい。彼は、自己の過去へと向き合う作品を作っている。自己は、現在の自己だけでなく、振り返ることで、進むことができる。フランスの詩人ヴァレリーは、「湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来に入っていく」と述べたと聞く。そのように、過去の自分とどのように対峙するか。その方法について、トリュフォーを観ると学ぶことができる。
・夜霧の恋人たち
コメディタッチで自分の過去を描いている。不思議に見入ってしまう、やさしい映画。
・二十歳の恋
トリュフォーの短編。
・家庭
この映画は、私に刺さった。トリュフォーの作品のなかで、これが一番好き。過去というクラシック音楽を、ジャズでアレンジしてしまったような、その弾みは、笑えばいいのか、泣けばいいのか、分からないまま、流れていく。
・あこがれ
トリュフォーの処女作。処女作からトリュフォー。
・逃げ去る恋
ドワネルシリーズのラスト。
・ピアニストを撃て
トリュフォー長編二作目。主人公が内向きなので面白い。
・レニングラードカウボーイゴーアメリカ
アキカウリスマキ。おもしろい。カウリスマキはもっと観たいと思った。
・突然炎のごとく
トリュフォーが描く男女三角関係。フランス映画で恋愛を描くのかと思ったら、やっぱり内気な男が主人公。女が母をモデルとしているという説には説得力がある。トリュフォーは、のこりのすべてを観てみたいと思う。
観ていくうちに観たいものが定まる
というわけで、一通り書いてみたのであるが、これから観ていきたい映画が、整理されていったのである。ジョンフォード、トリュフォー、カウリスマキを観ていこう、ということだ。新作のレンタルなどは、もう観なくてよい、ということがわかった。
映画作品を、同じ監督のものだけを観ていくと、一つのスクリーンに重なっていくので、白い光に包まれて、映像の内容は消えていき、写真の撮り方だけが残る。
地獄の物語、語ることによる救い
映画の物語というものは、「この世の地獄」なのである、ということがよくわかった。けれども、その救いは、描きつづけるカメラ自身にある。中身ではなく、その形式が、「救い」なのではないだろうか。そのようなことを考える。だから、「作家」というものを、私は追い求めている。それを、見出そうとしている。
トリュフォーは、自己の過去の地獄を映した。その移された地獄は、すでに地獄ではない。そこに、映画の不思議があると思う。
話題作は映画館で観ないといけない
だから、話題作というのは、実は、映画館で観ないと意味がない、というのも、発見であった。配信で話題作を観てもつまらない。それは、配信された時点で、映画の役目をすでに終えているものが多いのだ。映画館で移された時点で、地獄はすでに、救われてしまっている。なかには、映画館で上映する前に、すでに成仏しているものさえある。そもそも、地獄でもなんでもなかった、なんてものもあるのである。
そのようなことを考える。だから、話題作を映画館で観る、というのは、あながち間違いではないと思う。配信では、監督にしぼって、観ていくのがよいのかもしれない。観たい古典などはありすぎるのである。
映画館では話題作、配信は好きな監督作
というわけで、映画館は話題作。配信は好きな監督作、で観ていこうと思う。余裕があれば「変」な映画にもチャレンジしようと思う。
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