ジョナスメカス『ウォールデン』を観た。
- 三好真弘
- 8月18日
- 読了時間: 3分
ジョナスメカス、やっと彼の作品を観た。DVDを今年になって買ったが、本棚に飾ったまま、観ていなかった。
日記映画を始めた人だということは知っていた。自分も日記映像を撮っているから、始祖である彼の作品を観てみようと思ったのである。
けれども、彼の作品を観る時間があるなら、その時間に自分の日記を撮ろう、ということで、なかなか観ることはなかった。
本作を観て、カメラがとらえる、女性の美しさに、胸が苦しくなる、という体験をした。
これは、監督が、彼女のことを、好きだった、ということではないだろう、と思う。
そうではなく、カメラを通して、人を見る時、そこには、過ぎ去ったものとして観る、という効果が、すでに表れているのである、と思う。
カメラに「映る」ということは「移る」ということなのであり、そして、「女性の美しさ」というのは本質的に「移り変わる美」なのである。
そのことを映像作品として自覚的に扱ったのが、スペインの映像作家のホセルイスゲリンであろう。彼に『影の列車』という作品があって、観たことがある。
そもそも私がジョナスメカスを知ったのは、ホセルイスゲリンとの往復映像書簡を観たからである。
さて、本作の編集で気になったのが、音声は別で足しているのかどうか、というところ(※ウォールデンブックに音声は撮影当時に録音したものを使用していると本人が語っている)。
あとは、編集が意外に細かいというのは、長回しが少なく、テンポがいい。長期間にわたる映像を編集して三時間にしたから、このようになったのだろうか。
他の思い浮かんだ感想というのが、60年代のニューヨークのアーティストが、素直に「かっこいいな」と思ったことだ。ギンズバーグとか、ウォーホルとか、見た目がかっこいい。集まっているサークルが、色気のある人たちばかりで、エネルギーが渦を巻いているようだ。
ほかにおもしろかったのが、このような過去の映像にも関わらず、「懐かしさ」というようなものを、私は一切感じなかったことだ。編集が、撮影から、そんなに間を置かずになされたことによるのだろうか。
そもそも「日記」というものが、懐かしさを引き起こすものではないのだろうか、けれども、それはこの感想を書いている時点が、映画を鑑賞したときから経ってしまっているということと、関係しているのかもしれない。
DVDには、ウォールデンブックというのがついていて、そこに解説がある。60年代のニューヨークの芸術の流れについて書かれている。ちらりと読んだが、「日記」というものへの注目が書かれていておもしろかった。「他者を映す」から、「日記」への移りは、ギンズバーグの詩などが、日記調であることと同時代的である、という。
本人もどこかで、大衆の歌うフォークソングが発掘されレコーディングされたように、やがてホームムービーが発掘されて、大衆の抒情詩として鑑賞されるだろう、と語っている。
ここらへんは、現代において、youtubeができたことで、ホームムービーというものが、逆説的に消滅してしまったのではないかということを思うと、絶句してしまうところが、私にはある。
また見かえしたり、他の作品に触れたりして、日記及び日記映画について、思考をめぐらしたい。60年代の文化についても、興味を持っている。
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