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『ひなぎく』ヴィラ・ヒティロヴァー監督作品を観た。

本作を観て、実は、まだ何にも言葉を用意していないのだが、こうして書くことによって、言葉が紡がれて、やがて感想も起こるのではないかと、期待している。


雑誌『チェコスロバキア・ヌーヴェルバーグ』を購入した。本作品のワンシーンが表紙になっているのであるが、そこに監督自身のインタヴューが載っている。


そこに、監督が本作の作り方について書いてあって、登場人物の「会話」を映画の軸にした、ということであって、それを読んで、少しだけ、本作を理解した気がした。


喫茶店とか、夕食とか、塾の帰りとか、部活の帰りとか、男同士でも男女でもどちらでもよいが、二人で夢中で会話をしながら過ごしていると、周りのこともよくわからなくなり、あっという間に一日が過ぎてしまうことがある。


そういう一日の断片は、こういう映画のつぎはぎになってしまうのだ、と妙に納得がいく。


「おしゃべりはシュルレアリスムだ」、とブルトンはシュルレアリスム宣言で書いていたと思う。


思いつきで話されるおしゃべりは、無意識的で偶然的である。それを映像化すれば、このように破壊的であったりするのだろう。


お笑い芸人の上沼恵美子のラジオは、聞き手のアナウンサーや男性芸人とともに、ひたすらにおしゃべりを続けていき、脱線に脱線を重ねていくのであるが、お決まりの文句として、「いつからこの話題になった?」というものがある。


本作の最後のシャンデリアの落下というのは、このふと我に返るツッコミのようなものだろうと思う。


または、しゃべりすぎで、「あっもうこんな時間」でもよい。


台詞のチェコ語?もかなり訛っているらしく、関西弁みたいなものなのだろうと勝手に思っている。


とにかく、こんなストーリーのない作品を一時間以上、見ごたえのある中身にするのが、とてつもない力業だと思った。


ちなみに、ヒティロヴァーの父は、駅の構内のレストランの経営を任されていたから、本人は駅を実家のように過ごしたらしい。そして、田舎育ちだからりんごが好きだったと本に書いてある。


だから、本作にも、駅とりんごが出て来る。


本作は、ストーリーが破壊されているように見えるが、そういった本人の記憶が、むしろ創造的に積み重なっているから、不思議なほほえましさがある。


例えば、成人期を過ぎて恋をしてしまい、いままで安定した現実が危うくなったときに、ふと初恋の相手を思い出して、懐かしくなったと同時に、もう一度子どもの頃からやり直すような勇気が湧いてくるように、本作も、無邪気な子どもからの立ち直りがある。


と、書いたのは言い過ぎかもしれない。あんまり、本作の映像に、記憶の中で、立ち返りながら語ることはできず、観念的な感想になってしまったかと危惧する。


けれどもまあそれでよい。この文章を書く前はなにもなかったのに、これだけの感想が出てきた。この感想は、本作「について」のものではなくとも、本作「から」出てきたものである。


この感想も、ひとつのおしゃべりなのだ。

 
 
 

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