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『ジョーカー:フォリアドゥ』を観た。

1.前作の『ジョーカー』は嫌いだった


おどろくほど面白かった。派手さはないが、ずっと味わい深い映画だった。


期待して観に行ったわけではない。前作『ジョーカー』を、言葉を選ばずに言えば、私は嫌いだったからだ。


列車内で銃を放ったのち、友人の目をハサミで刺した時に、ああこの映画のリアリティは地に落ちた、と思って、それからあとは、ぼーっと観ていた。


途中でこの街が「ニューヨーク」ではなく、「ゴッサムシティ」という架空の街だと知り、「あっそうか漫画の映画化だった」とそのときに気づいたのであるが、知らなかった私が悪かったのである。


2.『ジョーカー』嫌いの人のための『ジョーカー:フォリアドゥ』


そんな私に、二作目を観に行く理由もないのだが、「ジョーカーⅡは評判悪いね」と知人に話したら、「他人の価値観ではなくて、自分で判断しないといけないですよ」と言われて、それなら観に行くということになった。


それで結局は、観てよかった。


観た後にいろいろ考えたのだけれど、前作『ジョーカー』が好きな人が、嫌いな映画なのではないかしら。逆に、前作嫌いの人が好きになる映画なのではないかしら。


けれども、前作『ジョーカー』が嫌いな人は、私みたいな奇異な人しか、観に行かないわけだから、そうすると、この作品の評価は必然的に低くなるわけである。


3.「社会」と「妻子」を捨てた「出家歌人」としてのジョーカー


リアルに暴力が描かれるのは、本作では、最後の刺殺シーンだけである。しかも、腹をぐさぐさと刺すだけ。これがリアルであったのが、よかった。


変なことを言うと、これは「切腹」だと思った。もっと変なことを言うと、ジョーカーは「武士」だと思った。誰にも分からないことを言うと、ジョーカーは「西行」だと思った。


彼は最後、歌人になった。実際、ジョーカー、歌っていたし。あの(下手な)歌声、私は好きだ。


西行は、23歳で、武士の官位を捨て、妻子を蹴り捨てて、出家する。そして歌の道に入る。「社会」と「家庭」の両方を捨てて、その両方を超えた「歌」の道に入るのである。


ジョーカーもこれに似ている。社会に捨てられて、妻子に捨てられる。リー(レディーガガ)に最後、階段でフラれるシーンは、爆笑しそうになった。リーがあまりにも、男をふる女そのものだったので。けれども、そうしてフラれるシーンは、私は観ていて清々しかった。すっとした。


死ぬ前に空想の舞台で歌う、辞世の句、白鳥の歌は、すばらしかった。


4.「二重人格」と「複雑な人間」


ジョーカーの演技が、ずっとすごかった、と私は思う。川の流れのように、ずっと一定でない。人格が変わるがわるしている。人格が、つねに、揺れている。


これはジョーカーにかぎらず、看守のジャッキーもそうで、極悪人なのか、ちょっといい奴なのか、わからなくなる。


本作では、アーサーとジョーカーという二つの人格を持っているということを否定することになる。このことは、単純にアーサーという一つの人格に戻るということを意味していない。むしろ、アーサーという「一人の人間」に戻るということを意味している。それはアーサーという一人の「身体」を持った一人の人間である。だから、この映画はミュージカルでなければならなかったのである。というのも、「歌う」というのは「身体」を用いることだからだ。


アーサーという一人の人間というのは、アーサーという一つの仮面を持つのではなく、それは複雑で微妙な表情を持って生きるということに他ならない。それは、生活をしている日常の私たちと同じである。ジョーカーなどという一つの仮面をかぶって生きる「反則」を犯すことはできない。そんな簡単な道はないのである。


5.「犯罪者の狂人」と「神がかった芸術家」


誰しもが、怖い目上の人にはちょっと「気を遣う仮面」をつけるし、優しくしてくれる女の人には「甘える仮面」をつけるし、才能を褒めてくれる友人の前では「自信満々の仮面」をつける。そうして、日々いろんな仮面を付け替えしながら、微妙な生活を生きている。


けれどもアーサーは、それができない。彼は、うまく「複数の仮面」を付け替えできない。


「母」に出会ったときに、「お前は才能のない馬鹿だ」というレッテルを張られることで、母の前でつねに彼はバカな息子を演じていた。「くだらないギャグを言うバカ」という仮面を一辺倒に使うことになる。本作では、牢屋で看守に出会うが、看守の前でも、彼は同じ顔を使う。


この「くだらないギャグを言うバカ」という仮面だけでは、人生がうまくいかないので、「ジョーカー」という仮面を使用することになる。この仮面が、前回は殺人犯だったのが、今回は芸術にまで高められた、と思う。


つまり、舞台上で人を殺しても構わない、というところに昇華されている。ボクサーがリングの上で人殺しをしても合法というようになっている。


「ジョーカー」という仮面が、日常の中で発動したら、これは「狂人」であるが、これがリングや舞台の上で発動したのなら、「神がかった芸術」になるのである。


6.「死」と接して「生」を表現する


本作では、ジョーカーという狂気に、舞台を与えて、無事に芸術に昇華した、と私は思った。


アーサーの「空想」の、ミュージカルで、リーにお腹を撃たれて、最後の歌を歌う。これが「真のジョーカー」である。舞台で歌う人は、舞台で歌う時に、その人格になり切っており、それは日常のアーサーとは別の人格になっている。それは二重人格ということではない。


詩人はふりをするものだ。そのふりは完璧すぎて、ほんとうに感じている。とフェルナンド=ペソアがどこかで書いていた。


だから、本作で、最後の歌は、「たかが空想」の中での歌ではない。空想であるがゆえに、「本当のジョーカー」なのである。もっと言えば、アーサーが死に瀕しているがゆえに、ジョーカーは本当に生きるのである。群生する花が、ハサミで切り取られて、「一輪の花」となって活けられるとき、すなわち「死と接する」ときに最も「よく美が生きる」ように。


7.『罪と罰』と『ジョーカー』


だから私は、最後のアーサーの腹を切られたシーンは、「切腹」だと書いたのである。アーサーを刺した、若い囚人は、アーサーに最も近い人間であり、彼自身のようなものであった、と言ってもよいであろう。


とはいえ、アーサーは、自分の分身に殺される、ということは、「かっこいい自害」とは違う、ということを、重く受け止める必要があるかもしれない。これが現代の世界を表現していると言っていいと思う。


アーサーは、殺されることしかできなかった。出家することができなかったのである。信仰の道に行く道は閉ざされていた。これは、現代社会の問題なのかもしれない。


ドストエフスキーの『罪と罰』では、殺人を犯したラスコーリニコフは、敬虔なキリスト教徒であるソーニャの言葉にしたがって、ピストル自殺をせずに、十字路にいって大地に接吻する。


アーサーは、陰謀論者であるリーの言葉に歯向かって、空想でピストルを撃たれて、獄中で若い囚人に刺殺される。


えらい違いである。


8.失われてしまった「信仰」の果てに


日本の鎌倉時代に、熊谷直実という人がいて、歴戦の勇者であり、敵を殺しまくってきたが、ある戦で、自分の息子と同じ年の相手の首を取らねばならなくなり、それで自分の業の深さにつくづくあきれ果ててしまった。とうとう戦から逃げて、法然上人のところに行って、自害しようと刀を取り出すが、法然に南無阿弥陀仏と唱えれば、どんな悪業をした者でも救われると言われ、ただちに出家する、というエピソードがある。


このような、話を私は思い出したが、現代世界でそのような信仰の話を持ってきて、映画のクライマックスにしても、リアリティがないものとなっていたかもしれない。だから、現代がいかに「信仰」の薄い世界なのか、ということをこの作品は表している、と思うのである。


三島由紀夫の『金閣寺』は、狂人が金閣寺を燃やしてしまう話だが、この作品を発表したあとに、三島は批評家である小林秀雄と対談している。そこで小林秀雄は、この『金閣寺』を小説ではなくて、抒情詩にすぎないと評している。犯人の犯罪までの心理を「美しく」描いているが、犯行後の社会との関係をすなわち「他者とのやり取り」を描いていないからだ、というのがその理由である。


この小林の『金閣寺』評を借りれば、前作『ジョーカー』は抒情詩であり、本作『ジョーカー:フォリアドゥ』は小説になった、と言えるかもしれない。これは、議論の呼ぶところだと思う。本作も、上手に社会を描けていたか、という疑問はのこるだろうと思うからである。あまりに「詩的」であった、と言えるかもしれない。


けれども、もしちゃんと小説(物語)になっていて、社会を描くことができていたと仮定したら、この現代社会に生きることは、とても深刻だ、ということが言えないだろうか。


ソーニャもいなければ、法然もいない。監獄で囚人に刺されておしまい、なんて、あまりにも、つらすぎる。


けれども、そのぶん、私には、最後の歌声が、やけに心に刺さった。

 
 
 

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