『街場の米中論』内田樹著を読んだ。
- 三好真弘
- 1月5日
- 読了時間: 5分
『街場の米中論』内田樹著
オーディオブックで読む
オーディオブックの一年契約を、去年の六月にしていたことに、年末の大掃除で気づき、せっかくなので、年末年始の休暇に何かを聴こうかしらと思い、本書を選んだ。
内田樹の著作との出会い
内田樹の本は、十年ほど前にハマり、数年にわたって貪るように読んだ。けれども、同じ内容が続いているな、と思ったので、しばらく読まないでいた。
去年に、NHKの100分de名著という番組の、カミュの回を観ていて、内田樹がゲストで出演していた。そこで、彼が話し出すと、場が「活気づいて」いくのが、目に見えてわかったのが、驚いた。彼の「笑い声」が、スタジオ全体に響き、共演者の身体に共鳴して、場が盛り上がっていた。そのときに、この人、やっぱりすごいなあ、と思い返したことがあった。
本書のまえがきでも、あとがきでも、著者は、「最近繰り返して書いていること」をここでも繰り返している、と「言い訳」をしているし、他の読者の感想でも、「また同じこと言っている」という意見が見られるが、私は先述のとおり、著者の本にしばらく触れてなかったので、気にせずに読めた。
中国のゲーム制限令
中国論に関しては、中国が「ゲーム制限令」を出した、ということについての記述がおもしろかった。いま私がネットで調べると、2021年にこの法令が出され、「18歳未満のゲームは週末のみ、しかも1日1時間だけ」ということ。2024年の時点で、一時停止されているのだろうか。
私は新聞を読まないし、テレビも所持していないので、そのことを知れただけで、よかったが、著者が、このことを、中国が過去にイギリスと行った「アヘン戦争」と結び付けているのがおもしろかった。ゲームという中毒性の高いものが、国内にはびこることによって、国力が落ちるということは、過去の「アヘン」での苦い記憶を思い出すからだ、と。
中国政府の格差是正への取り組み
それから、このゲームの規制というのが、中国政府が、「教育格差」について、考慮している、ということを示している、ということを著者が指摘しているのも、勉強になった。自由競争による、経済格差が起こっている現状を、中国政府はまったく歓迎しているわけではない。ゲームを規制するということは、教育についてその格差を是正したい、という願いを政府は持っているというわけである。それは、本来、人民が「すべて平等」であることを目指さした「共産主義」の理想を、政府が忘れてはいない、ということを、表しているのかもしれない、と著者は述べていたと思う。
そして、著者は、これからの中国の行く末について、自信が政府にアドバイスを求められたとしたら、「共産主義」に戻ることだ、と言っている。これを、「皮肉」と取るべきなのかわからないが、なかなか、おもしろい。
アメリカ論
さて、アメリカ論については、これは、アメリカの通史を述べていて、内容は濃厚であった。オーディオブックで聞き流すだけでは、ついていけない部分もあったが、アメリカが
「自由」と「平等」、その相反する理念を、葛藤しながら、歩んできた、ということは、理解できた。
アメリカとマルクス主義
そして、自由の国と言われるけれども、1848年に、マルクス主義者が、ヨーロッパから国内に入ってくる、ということ、が述べられていた。何が理由だったかは、聞き取れなかった。けれども、現在の常識では、アメリカは、まったく資本主義の国で、反共産主義だということになるのだが、単にそうではなく、マルクス主義が、国内に入ってきて影響を持った時代があった、ということは、分かった。1848年は、ちょうどリンカーン大統領が
「奴隷解放」について、取り組んでいた時代であり、彼はマルクスと交流があった。そして、マルクスのこの時代に、アメリカについて論文を書いている、と著者は述べている。
こういった、テレビとか、教科書では、あまり知られていない事実について、書いてくれるから、内田樹の著作はおもしろい。
JSミルの自由論
他には、JSミルの「自由論」が、「自由を制限する」ことを論じたものであることを、知ることができた。つまり、それまでは、「支配者の力を制限する」ことが、問題になっていたのだが、彼の時代に初めて、市民が力を持ち、彼らが「自由」に活動することによって、「格差」などの問題が出て来ることになった。そこで、自由を制限することが必要であるか、について、歴史上はじめて議論されるようになったらしい。
すなわち「自由」と「平等」についての議論である。この議論が、アメリカにおいて、常に論点となってきた、ということである。そして、この議論は、現在にまで続いているということだ。
「自由」対「平等」
さて、思いつくままに、感想を述べていったが、本書のテーマは、アメリカ論と中国論で、それを「自由」と「平等」の「葛藤」を軸に、論じている。著者は、終盤において、「自由」と「平等」という相反するものを結びつけるものとしての「友愛」を説いている。自由を追求すれば、個人と個人の闘争になる。平等を推し進めれば、全体主義的な監視国家になる。この食い合わせの悪い両者を結びつけるのが「友愛」で、それは、「共同体」における市民同士の義務となる。そして、それは国がそうしなさい、と命令することはできない。命令した時点で、「平等」を目指す、「全体」に組み込まれてしまうからだ。
共同体の「友愛」
この「友愛」をもってして、共同体の市民として自主的に助け合うこと、これは、大切なことであろう、と思われた。そして、明日からも、できることは、あるだろう、と思うのである。それは「自由」だからと言って、自分のことを優先するのでなく、「平等」だからと言って、自分の権利を叫んで居直ることではない。そのどちらでもなく、共同体のために、自分の義務を、率先して果たすことだろう。明日は、仕事はじめである。これは、やってみたいと思った。
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