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2022/10/21(金)in京都西院ネガポジ

2022/10/21(金)





in京都西院ネガポジ



wサトウユウイチ/東小太





10/21(金)は京都ネガポジでライブを行った。フリートークでも語ったが、前回のライブの7月のときに新曲をやらなかったので、ずいぶんと新曲を発表できていなかった。Youtubeに音源をあげたが、「梨のひとかじり」という新曲を歌った。ぜひ、聞いてほしい。歌うというよりも「語り」というもので、それはファ


ーストアルバムに収録の「play a blue marble」から「ブルーサルビアのにおい」そしてセカンドアルバム収録の「アイラブユーだったよ」まで、一貫して作られていたものだけれども、今回のそれは、また違


った味になっていると思う。

ネガポジのPAはゴローさんだった。終わってすぐに感想で、「もう今にも消えそうでくたびれた感じがよかったわ、あれは演出か?」と言われて、それがあまりに饒舌だったのに驚いて、「演出ですよ!」と笑って答えた。消えそう、というのが、私の生き方の心配をしていると思ったのである。

今回からフリートークを行うことにした。そこで、日々の出来事は、もう話さない、と言う風に決めて、あらかじめ話すことも決めず、「そのときに考えながら語る」ということを、したいと決めたのである。それは、文章を書く、というような仕方で語りたい、


というもので、また、ライブの場で語る、というようなことをしたい、と思った、のである。ライブ会場のステージの上というのは、特別な場所で、そこから、何かを語る、というのは、他の場所で語ることとは、まったく違った特別なことである、と思うからである。そこで、平凡なことを語ってもしようがないであろう、と思ったのである。思いつくままに、語ってみよう、自分でもわからぬことを、考えながら、語ってみよう、と思ったのである。



それで、今回のフリートークでは、歌うことをやることと辞めることについて、語ることになった。それを、「死」を語ることによって、語った。植物は死なない、枯れる。動物は、死ぬ、が死のうとしない。人間は死のうとすることができる。とはいえ、人間の死のうとするということは、本当に「可能」なのか、ということ。これは「不可能」ではないか、というのが、一応の答えである。不死を生きる、というようなこととして、歌うということはありえる、というような、飛躍した理屈を語った。というのも、歌というのは、できるという予測はつかないものであり、それは、死というものが迫ってくるのと、似ているからである。明日に予定が迫っているような仕方で、歌は迫ってこない。歌はどのよう


に発生するか。感性によるのか。ものごとにふれ、感情が高ぶったときにできるのか。人に伝えようとして、自分の中に、発生するのか。どこから生じ、どこへ行くのか。それは、客観的に存在するのか。

何を言っているかわからない、というようなことを語れて、うれしい。歌うことについて、歌う場において、語ろう、というこころみをしていきたいと、思っている。なぜなら、歌うのやめたくないから。歌うことの意味は、歌うことの意味を書くことによって、存在するのだ、と思うからだ。それは、創作するものである。それは


、発生であり、発表ではない。死から、生まれてくるものなのである。




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