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2023年11月2日㈮京都西院ネガポジ「サシ呑み 山家悠平と三好真弘」

京都西院ネガポジ11月2日㈮

「サシ呑み 山家悠平と三好真弘」





おもしろい企画だった。何がおもしろかったかというと、ステージの上で、他人の歌を聴くということがおもしろかった。これを聴き終わったら、すぐになにかしらのコメントを添えなければならない。そのために全身で歌に聴き入る。これだけ集中して他人の歌を聴く機会はこれまでなかった。


自分の歌についても、これだけ解説をするというのは、初めての事だった。いつものライブでは、ずっと歌い続けている。ライブ中にMCを入れることは、一度くらいはあるのだが、それをひとつの歌を歌うごとにやることはない。それを今回やったのであるが、おもしろかった。これは、歌の説明をする、ということ以上に、「なにか特別なこと」であったと思えた。


特別なこと、というのは、たんに曲の説明をした、というよりは、「自分自身の説明」をした、ということなのだなあ、ということであろうか。この実感は、ライブを終えて、これを書いている、今感じるところである。やり終えた、という感覚、そこに、「成長した」という感覚、を伴っている。いままで言ってなかったことを、言った感覚。やり過ごしていたことを、やった感覚。ごめんね、と言えてなかった彼に、ちゃんと謝れた感覚。歌に、ちゃんと謝れた、とでも表現すればよいであろうか。


歌を歌うということは、歌を歌い続ける。歌と対話し、歌と付き合う。歌を聴く側はそれほどでもないが、歌を歌う側は、その歌を毎回歌うのである。あたり前なことを言っている。そのなかで、歌う人は、歌に対して、また歌は、歌う人にたいして、そっけなくなったりする。毎回歌う歌などは、歌詞が無意識に出て来る。歌詞の意味や、それに伴う想像などがなくとも、自然に歌詞がでてくるものである。


それが、歌と歌う人との関係において、ベストな関係なのか、分からない。ベストな関係というものは、矛盾した言葉だ。関係は、つねに、動くものだからである。関係が、ベスト、と決めつけた瞬間に、その関係は、止まってしまい、ワーストになる。


歌詞について、説明することは、歌う人と、歌との関係に、ダイナミックさを、復活させる切っ掛けとなったと思う。


歌詞について、説明することについて、危険を伴う、といままで漠然と私は思っていた。聴く人が、歌詞について、自由に受け取ることができるものを、制限してしまう、と思っていたからである。


今回、自分の歌について、説明をすることによって、私は私の歌詞について、制限をするどころか、そこに複雑さを加えていることに気づいた。説明をすることは、その対象の歌について、整理整頓をするどころか、もっとややこしくしているのである。そうではない。


今回のライブをスタッフとして観ていたネガポジのオーナーのゴローさんは、「説明を聞いて、より三好の歌がわかったわ」と言ってくれた。だから、説明をすることで、整理をしているのではないが、ややこしくしているのではない。背景について、より広く説明しているのである。時代背景的なことである。それは、必要かと思う。


少し文章が雑になっているのを承知で書き進めている。また、次回のライブからは、一つの歌について、説明を詳細にしてから、歌ってみる、ということをしてみてもおもしろいと思った。


大瀧詠一が、ラジオかなにかで話していた。歌というのは、中身ではなく、イントロで決まる、と。歌番組を観てみよ。歌手が登場するとき、イントロが流れながら、アナウンサーが、その歌手の歴史と、歌について説明する。「それでは、お聞きください、都はるみで、好きになった人」。


このライブの日に丁度、ビートルズの最後の新曲である「now and then」が発表された。テープに録音されたジョンレノンの声が、AIによって復元されている。この歌について、ジョンの作曲や、作詞、歌唱について、評価をする人は、いるとは思うが、少ないだろう。いい歌だなあ、さすがジョンレノンとは言わない。マイナー調で、ジョンレノンすごいなあ、と私は個人的に思うのだが、そのすごさを、すごさとして、打ち出すことができているのが、すごいのである。


Now and then には、「説明」が、歌そのもののなかに、入っているのである。この歌を聴くとき、われわれはこの歌だけを聴くのでなく、その歌の「歴史・背景」も同時に聴くことができるのである。それがすごい。


歌そのものに背景を含めるということ。背景そのものも歌に加えるということ。そのことを視野にいれて、今後の活動をしていきたい、と思っている。一つの歌は、それ自体で独立するのではなく、他者へと開かれ、有用となるであろう。

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