2022/12/15(木)
in京都西院ネガポジ
with長濱礼香/M2A
1.KATSURAGAWA
2.雪のように
3.梨のひとかじり
4.さよならにて
5.花束をあなたに
6.ブルーサルビアのにおい
2022年の最後のライブであった。MCで語ったように、今年は3月に一年間の休止から復活した。そのときは、正直に言うと「声が前のように出ない」という状態であった。それは、長い間歌っていなかったから「訓練」として筋肉が衰えていた、というのがある。ギターを弾く腕も、歌う声帯や腹式呼吸の筋肉なども衰えていたのだ。ライブのあとに、どっと疲れたのを覚えている。あんなに泥のように寝たのは久しぶりであった。「歌う」というのはこんなに「いつもとちがう」筋肉を使うのか、とあらためて気づかされた。ということは「いつもとちがうこと」をしていることでもある。それは大切なことなのではないか。復帰して数回のライブを行って、その認識を深めている途中である。
「日常を送っている自分」だけが「自分」であるというわけではないのだ。非日常なる「舞台の上にたつ自分」や「それにむかっている自分」というのも自分なのである。それは「変わりつつある自分」なのであろう。その自分は、日常の自分からしたら、都合のよいことばかりではない。うわぁ来週ライブやあ練習しなあかん、というように「めんどうくさい」ことなのである。それでライブはいやだ、ということでなにもしないでいると、なんだかつまらない人間になる、のであろうか。一年間なにもしなかった、というわけではないのだけれど。
それじゃあつまらない。というわけで3月に復帰したのであろうか。理由というものを話せるような活動というものは、たいしたものではないだろう、とだけ言っておこう。なぜ歌うかわからない。それは歌の方に歌わされている。「歌う時の身体感覚」としてはそうなのだ。歌に歌わされている。そして歌が歌うままにしてあげる。そのようなときがもっともここちよい。自分を捨てた忘我の状態こそもっとも満ち足りているというのは逆説でもなんでもない。
今回も「ブルーサルビアのにおい」を歌った。ファーストアルバムの表題曲でもあるこの歌は「試金石」だった。3月に復帰してから、これが全然以前のように歌えなかったのである。復帰してからは以前よりキーをひとつ落として歌っていた。それが、今回元のキーで歌うことができた。それが私にとってうれしいことであった。
さて、歌うということは、社会的に言えば、歌え、と要請されて歌うのである。具合的にいえば、ブッキング担当の江添さんにもうそろそろやるか?と誘われたから歌うのである。次ライブどう?とゴローさんに言われたから歌うのである。当たり前のことだけれども、歌うことを自分で決めるわけではないのである。どこかの「場」で歌うということは、他者との交流があって、初めて成り立つのである。
そもそも、「歌」というものは、現象としても、外気の振動なのである。それは、みんなの「場」が揺れているということにすぎない。「共有」されていることなのである。場を共有し、時間を共にしている。
ぼくはぼくの席にすわる旅人。
ぼくのいなくなった場所であいましょう。
という新曲の冒頭の歌詞は、そのことの表明である。自分というものを捨ててここからはみんなと場所を共有するのだ。以下にその新曲『さよならにて』の歌詞の全文をあげておこう。
ぼくはぼくの席にすわる旅人
ぼくのいなくなった場所であいましょう
のりすごしたバスの外を眺めて
しずむ夕日にいつか帰るでしょう
子どものころ ぼくがあの家で
熱いシチュー食べてやけどしたころ
かんだにんじん 香る畑の土
とけた夕日のにおいもしていた
Ⅼ’éternité あのときそばにいて
あの日いなくなってしまった人
愛の入ったままの空き缶を
ふみつぶしてこぼれていく夕日
さよならにて 手をふる海の波
ほほえんでいるようにひろがる波紋
わすれられてしまうということの
よろこばしさを思いだしながら
ぼくはぼくの席にすわる旅人
ぼくのいなくなった場所であいましょう
のりすごしたバスの外を眺めて
しずむ夕日にいつか帰るでしょう
さよなら「にて」という助詞が、三好真弘にとっての新たな鍵概念となるであろう。「自分」というもの、またその自分を固定するであろう「過去の自分や他人」へ別れを告げたあと、その「さよなら」という場所で、「あらたに歌う」ということの決意表明である。