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2023/3/22(水)京都西院ネガポジ

2023/3/22(水)


京都西院ネガポジ

w/高木鯔/戸本亮太


1花束をあなたに

2天空から錦がぶら下げられている

3 KATSURAGAWA

4 つよく生きたい

5 新曲

6 Arrival

7雪のように

8ブルーサルビアのにおい


京都ネガポジでライブであった。毎月出演している。私にとっての「ホーム」である。ここでライブをすることに慣れている。それは良い面と悪い面があるだろう。良い面といえば、平常心を持ってできるということ。悪い面は、緊張感がなくなることだ。その悪い面が今回は出た、とは言うまい。そのどちらか一方が出るということはない。やはりそれらは両面である。


その日のライブがよかったか、わるかったか、を判断することはできない、と言ってみる。それを判断するためには、基準が多くあり過ぎるからだ。判断する者はいったい、演者本人なのか、PAをしたお店の人なのか、聴きにきたお客さんなのか。


客観的に「いいライブ」なるものは存在しない。そもそもライブというものは、客観的に存在しない。歌う側と聴く側との相互作用だからである。とはいえ、何かそのライブがよかったか悪かったかについて、「糧」は存在すると思う。もしくは存在してほしいと思っている。それがないと、次へのライブにむけてやる気がでないからである。


ライブ後のそのライブを観た人による「感想」がおもしろい。それは演者にとってひとつの「糧」である。今回はあるお客さんに「涙出そうになったわ」と言われた。これはうれしい反応だ。「涙が出る」という生理的な反応を歌によって生み出せたからである。これは「客観的」であるだろう。地球のことを知らない宇宙人が来てこの日のライブを観ていたとする。なにやら少し高いところから音声を発生させている者がいる。それを聴覚器官から受容した者が、「視覚器官から液体を発生しそうになっている」と認識できるのだ。


この日は春であった。ライブ後に高木鯔君と話していて、最近はふわふわしている、と彼は言っていた。春特有のふわふわした感じ。歌っていると身体の感覚が研ぎ澄まされるから、そのふわふわの感じに感覚がフォーカスされる。そしてその感じを平常に戻そうとする働きが生じる。その働きのひとつに「泣き」がある。


春は、泣くことによって、心身のバランスを保つことができる、と思う。それは歌っていると痛感するものである。今回は、身体の感覚が「泣き」のモードであった。それをそのお客さんは「共感」してくれたのである。それは一つの成功だった。


「疲れてんのか」と、ライブ後にPAのゴローさんに言われたのは、この「泣き」の逆効果であろう。普段のパワーがなかったと言われたが、それを言われたら反論できない。仕事で疲れています、という言い訳は決してしたくないところだ。


他のお客さんには、「白装束の歌詞がおもしろかった」と言われた。Arrivalという歌を気に入ってくれたらしい。これはうれしいことだ。歌詞を「おもしろい」と言ってくれることは歌詞に重点を置く私にとってよろこばしい。そういえば、「おもしろい」と反応をもらったのは、久しぶりのことだった。かつてはこの反応があった、と思い出した。ファーストアルバムの「はまち一貫how much?」などはそれが駄洒落であることもあるが、それを歌うと笑いが起きたものだった。「ユーモア」というものが歌の中に復活してきた、ということをこの感想から実感することができた。


歌詞を全部知りたくなった、とその人は言う。これが歌のおもしろいところである。その日のパフォーマンスがすべてではなく、歌詞を紐解くことによって、何度も反芻することができるのである。言葉のもつ魔力である。そして、今私がたどり着いた「詩」として独立した歌詞をつくるという創作方法のひとつの成果であるとともに、今後の課題でもある。


歌詞を一つの独立した詩として成り立たしめたい。その主題は、私にとって、最初の音楽活動からのテーマだった。そしてこれは終わりのない旅のようなものであろう。


「三好はあとは旅をしたら完成やな」とゴローさんは言う。海外に行って、生まれてから当たり前に触れていたことが当たり前ではない場所にいくべきだ。そうすると必然的に「アンテナ」が立つようになるからだ。そのように、彼は語っていた。最近、私は旅に行っていない。とはいえこの「旅」というものはどこかに行く「旅行」だけに解釈せずに、大きく捉えることができるだろう。「新しいことに触れる」という意味に私はとった。


とはいえ異文化に触れるのは難しい。生活はすぐにルーティン化して堕落してしまうからだ。このごろは毎週新作の映画を映画館に観に行くことにしている。しかし映画だけを観るということはひとつの堕落であろう。それでライブ直後の休日は早速「旅」的にすごすことにしてみた。その日は映画館に行く前に散歩をしていたのだが、そのときに「京都伝統工芸会館」なる建物を発見したのである。なんだここは、と思って過ぎ去ろうとしたが、「いや、私は旅をするのだ」と思い返して、入ってみた。


土曜なのにお客さんはひとりしかいない。そんな中で、匠の作品をみることができた。作品について子細に話すことは避ける。しかし、工芸というものは、音楽とちがって、目の前に「物」として提示される。ここにはっきりと目に見えるかたちでの「洗練」されたものと出会うことができた。作者の長年培った技術や生き方のようなものが表現されている。そしてその表現は「自分」というものが「無くなっている」ということが表現されている、と思った。それが「物」としてはっきりと提示されている。これが私に強い印象を与えた。私もこのような「洗練」された歌を作りたいと思った。そしてそれには時間がかかると思った。


工芸をみて抱く「感想」とは何か、と考える。またそれと私が歌うことから発生する「感想」と比べてみる。不動明王の彫り跡をいくら辿っても、作者は出ておらず、ただそこには不動明王がいるだけであったのを、私はずっと黙って眺めていたのであった。

 
 
 

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