2025年8月2日(土)祝!ネガポジ29周年! セミファイナルウォーラス/三好真弘&ザ・ステンシルズ
- 三好真弘
- 8月5日
- 読了時間: 4分
更新日:8月6日
よっぽどくだらない悩みを抱えているように思える。よっぽどくだらない悩みを抱えているように思えて、ふと笑ってみたりするのだが、それでも悩みは消えずに、うるさい蚊のように、つきまとってきては、私の腕を噛む。
歩いても、歩いても、蚊はやってくる。私は蚊は殺さない。いつからか、殺さないようにしている。それで、指でやさしく、羽だけつまむ。それで放り投げる。それでも、なんどもなんどもついてくる。
ネガポジの開演前、一時間近く、近所を散歩していたときのことである。
「みよっしーはいま全盛期やん」
とウォーラスのヒデキさんが言ってくれた、という話を今回のライブでMCのときにした。そのとき、ヒデキさんは私の最寄り駅の二つ前で車から下ろしてくれて、私は家までひたすら歩いたのであった。
四年前くらいだったかな。まだ引っ越したてだったので、地理感がつかめず、途方もなく歩いたように感じたが、いまでは、それほど遠くもない距離だったと思う。「すこし歩いたら」というヒデキさんの配慮だったとも思う。
その時は晩秋くらいだったと思う。酒もやめていたから、酔っぱらいもせずに、ただ歩く。さびしくなってローソンでチョコレートビスケットを買ったと思う。袋からあけて、チョコビをかじっていたら、余計にさびしくなってしまった。
誰もいない北山通を深夜、一人の男がチョコビをかじって歩いている。これが全盛期の男の、必死の振る舞いであるとしたら、と思うと、笑い出さずにはおれなかった。
まったく、よっぽどくだらない悩みを抱えているように思える。ライブが終わった後、ネガポジを出てから少し歩いた。そのときも、悩みは変わらずにあった。
最近、初恋の人を思い出した。思い出した、というのも変であるが、私はよく朝に、過去の思い出をパソコンに書き出している。
それで、初恋の人が出てきた。幼稚園のときからの知り合いだが、思い出は、小学校2年生のときのことである。放課後、うわさ話を聴いたのだ。初恋の人「ゆりちゃん」と、お調子者の「なおき」が、キスをしたというのだ。
その噂の真相を確かめるために、私は必死で聞き取りを行い、キスをしたのではなく、鬼ごっこをしているときに不慮の事故でぶつかったのだ、と結論づけた。キスではなく、顔面と顔面をぶつけたにすぎない。
その話はおいておくとして、初恋の人が「ゆりちゃん」である。それで、あっと思った。私の歌に「花束をあなたに」というのがある。これはラブソングなのであるが、その歌詞の序盤は、「花束をあなたに、ユリのポッケに春をつめて」である。
ご存じのとおり、「ユリ」の花は夏に咲く。夏の季語である。だから、ユリに「春」を詰めるのは、矛盾とまでは言わないが「変」なのである。季節が合わない。なぜここはあえて、季節がずれているのか。そこに「ユリ」という言葉が使われているのは、あえて季節をずらしてでも使いたかったという、「ある意図」があるのである。
私の歌を聴いた人でその意図に気づいた人はいままでいない。
あたり前である。わたしも今まで気づかなかったのだから。
「ユリ」とは、初恋の「ゆり」ちゃんのことだったのだ。私はずいぶん驚いた。そして、この歌を、私は一生歌い続けるべきなのだろうな、と自覚されたのである。
おそらくは、ゆりちゃんと再び出会い、再び恋におち、初めて好きだということを伝えて、相手もまた好きになり、お互いに思い合うことは、ないだろうからである。
私は私がゆりちゃんのことを好きだったという事実だけに取り残されている。私は私が好きだったという事を伝えようとする。けれども決してそこに相手はいない。
さて、ネガポジのライブのあと、一人で歩きながら、よっぽどくだらない悩みを抱えているように思えて、あきれてしまった。もう二度と戻ってくることのない人に戻ってくるように願うことなど。
けれども、そんなとき、そうしたくだらない悩みから逃れられないとき、私には人生で、いつもステージが用意されてきたように思う。
そして歌ってきた。
最近、大阪のゴッホ展に行った。そこにはゴッホ直筆の手紙が置いてあった。
「僕は自分が何を目指しているのか、よくわかっているし、そして自分の感じるものを描き、描くものを感じるという正しい道を進んでいると強く確信しているから、他人に何を言われてもあまり気にならないのだ。」
そう強く語ってからゴッホはこう続ける。
「とはいえ、生きているのが辛くなることもある。」
さて、今度こそ私は、私の好きな人に、好きということが伝えられるであろうか。
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