2023年6月2日㈮西院ネガポジ
- 三好真弘
- 2023年6月6日
- 読了時間: 3分
2023年6月2日㈮西院ネガポジ
w/リールード/でーすいらも~ん
きみよしあわせに (I hope you will be happy)
Arrival (Arrival)
近畿 (Kinki)
真夏のバスケットボール (Basketball in midsummer)
天空から錦がぶら下げられている (Brocade is hanging from the sky)
~フリートーク~
四天王寺さんの砂はぼくの骨でできている (Shitennoji's sand is made of my bones)
ブルーサルビアのにおい (Smell of Blue Salvia)
花束をあなたに (These flowers are for you)
大雨の日のライブであった。京都は朝から大雨警報がでているほどであった。とはいっても夕方から雨は小降りになっていた。
ファーストアルバムから久しぶりに「真夏のバスケットボール」を歌った。ファーストアルバムの発売記念のライブ以来に歌ったと思う。5年ぶりくらいになると思う。これを歌いたいと思ったのは、最近になっても継続してバスケットボールをしているからだ。ほかにもNBAというアメリカのプロバスケットボールリーグを私が楽しんで観戦しており、そのリーグが現在優勝決定戦を行っている最中だからである。
ファーストアルバムから久しぶりに歌ってみたいということがまずあった。前回のライブでセカンドアルバムから久しぶりに歌うことで、自分の持ち曲を披露することに喜びを覚えたのである。それまでは新曲をしなければならないという思いが強くあった。昔の歌というのは過ぎ去ったものであって、それにこだわってはいけない。しかし、一度昔の歌を歌ってみるとよい感覚を覚えたのであった。
その「よい感覚」というのは、歌というのを客観的に歌うことができるという「歌と距離をとれる感覚」である。歌を歌う時、歌を歌うとともに、多かれ少なかれ、感情を乗せてしまうものである。これが新曲の場合は特にそうなるだろう。現状にともなう感情を持ちながら、歌を歌うことになる。歌の歌詞等は現状について表現しているはずだからである。これが昔の歌であると、現状は変化している。それゆえそれに伴う感情はいったん消えている。
「真夏のバスケットボール」の場合、最後の歌詞は「こういうのはどうだろう。普通にサラリーマンをして食っていく。」というものである。これはこの曲を作った時点では、パート職員としてぶらぶらと暮らしていたから出てきた歌詞である。それから五年たって、私は正職員として立派に「サラリーマンをして食っている」。その私が歌うというのであるから、ここに感情を込めることはできない。
感情を込めないことによって、その歌の価値を損なうものではない、ということを確認できた。これによって、これからの歌作りも変化していくと思う。すなわち、感情ではなく、事実を歌っていくこと。もしくは、感情が伴ったとしても、それについてそう「感じた」や「思った」と付け加えること。というのも「感じた」ということはひとつの事実であるからである。
新曲は「四天王寺さんの砂はぼくの骨でできている」を歌った。前々回のライブ終わりにネガポジのオーナーであるゴローさんに「旅をしたら三好は完璧やな」というふうなことを言われたのを意識したかしていないかは分からないが、旅をした時の歌である。本当に久しぶりに旅をした。今年のゴールデンウィークに大阪に行ったときの歌である。
よく歩いたときの歌だ。長い歌だが、最初はもっと長かった。何度も削ってこの形になった。削るほどの素材がたくさんある歌、というものはよいものだ、と思った。折々の歌ということを考える。折々の歌というのは、日頃に生きていて、何か出来事がある。そのことについて歌うということだ。「四天王寺さんの砂」を作っているとき、歌詞の最後で、「何かを与えられ、何かを返そうとしている」という信念がふと出てきた。日頃の生活のなかで、出来事にぶつかり、そこから何かを与えられるはずである。そのことに対して、返すように歌を作っていきたいものである。
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