2023年9月17日㈰京都木屋町ミングル
- 三好真弘
- 2023年9月26日
- 読了時間: 4分
更新日:2023年9月30日
2023年9月17日㈰
京都木屋町ミングル
w/ワカマツヨウジン、長濱礼香
1金魚
2墓へと昇る石段で蛇が死んでいる
3鹿がぼくを見ている
4四天王寺さんの砂は僕の骨でできている
5Play a blue marble
6ブルーサルビアのにおい
7春夏秋冬
アンコール 夏のキャタピラ
今思えば最後の残暑の日。昼間は暑かった。夜からは涼しくなるかなと思って長袖シャツを着ていったが、夜からも暑かった。夕方のリハに自転車を30分こいでむかったが、ついたら汗をよくかいた。リハが終ってからも、熱が体内を出にくいのであった。
左手に腕時計、右手にブレスレッドをつけてライブをした。この日がそうする初めての日になった。いままでは、腕になにかをつけてライブをするのは邪魔であると考えていた。しかし、その考えは単純すぎた。つけてみると、邪魔ではない。むしろ身体の感覚が研ぎ澄まされる気がする。あくまでも「気がする」なのであるけれど。本当のことを言うと、歌っているときは忘れている。しかし、忘れている、というのは、意識にのぼらないということで、身体は皮膚の感覚として、感じているはずである。忘れているということは、皮膚が皮膚として、感じている、ということである、のかな。まあ、これの話を続けるのはよそう。けれども、おもしろいと思っていて、今後も考え続けたい。今度は、指輪をつけたいと思っている。対バンの長濱礼香さんは三つ指輪をつけていた。西洋のお人形さんみたいにきれいな金髪。真っ赤なパンツに白い無地のTシャツ。ステージに上がる人間、という感じである。私も見習いたいところだ。
この日は新曲を二曲うたった。前回のライブから一か月以上経っていたので、新曲が3つ以上溜まっていた。そこから二曲選んで歌った。「墓へと昇る石段で蛇が死んでいる」と「鹿がぼくを見ている」である。両者共に奈良へ旅をしたときの経験の歌である。旅の経験の歌は「つよい」。つよいと表現したのは、廃れることがない、という意味だ。経験が豊富であるから、歌を作るうえで、素材がしっかりとある。大きい木がまずあって、それを切り取って像を作っていく。大胆にそぎ落とすことができる。なにもないところから空想で歌をつくるとなるとそうはいかない。コロナによって外出を自粛しており、家にじっといて歌をつくっていたが、それによってある種の「スランプ」に陥っていた。それが旅をすることで一気に歌ができるようになった。「しっくりとくる」歌ができるようになった。「コツ」がわかったと思っている。これもコロナのおかげだと思っている。旅をして歌をつくる。松尾芭蕉のようだ。日本人は伝統的にそういうふうに歌を作ってきたのだろうか。今後も頭ではなく、足で歌を作ろう、と思っている。いつかネガポジのオーナーであるゴローさんに「三好はあとは旅をしたら最強やな」と言われたことがある。この方程式に代入をしてみよう。すると、三好はいま旅をしているから最強なのである、ということになる。
ライブ終了後、対バンのワカマツヨウジンさんに私のライブの感想を言っていただいた。それが大変おもしろかった。「ギターの音が重く、歌詞が軽かったですね。これは意図的ですか?」。そう言われて私は「?」となった。ギターが重い、という表現をされたのが初めてだったので、その意味を咀嚼することができなかったのである。普段のなんでもない会話なら「そーですねー」と流すところなのだが、とても興味深かったので、「重いってなんですか?」と聞いてみた。すると、ギターのベース音が効いていた、というギターの音の話にまずなった。ベース音がよく響いていた。それ対して、歌詞も重いのかとおもいきや、軽くなっていた、ということだった。つまり、ギターの音と歌詞が合致するよりもむしろ相反していた、という印象を持ったということだった。これは、歌の構成でもいえるし、その日の曲目全体にもいえることだということだった。また、一曲の歌詞のなかでもそうで、例えば「キャタピラ」というように、歌の全体はやさしいにもかかわらず、突如攻撃的な歌詞が入っていて、驚かされる。曲目のなかでも、激しい無骨な歌があれば、Jポップのような曲もある。そのように、重さと軽さが共存しかつ競合している。それが、おもしろかった、ということだった。会話をかわしていくうちに、以上のように、私の演奏について、言語化されていったのであった。これは私にとっても、私自身の歌を知るよい機会となった。今後、より自覚的に曲目を決めたり、歌をつくることになるにちがいない。曲目については、次回のネガポジのライブで、明らかな影響を及ぼすだろう。その日は、今年作った新曲のみで構成されるはずだ。
9/26記す。
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