2024/5/24 SUBMARINE
- 三好真弘
- 2024年5月28日
- 読了時間: 4分
2024/5/24
SUBMARINE
1. きみよしあわせに
2. 出店の姉ちゃんが…
3. 四天王寺さんの砂は僕の骨でできている
4. 節分祭
5. 博物館では中学生が二人…
6. 夏のキャタピラ
弾き語りのライブを行った。久しぶりのライブであった。3月29日にサブマリンで弾き語りをし、その後4月7日にバンドでネガポジにてライブして以来であった。弾き語りとしては約二か月ぶり、バンドを含めても二か月近くの間が空いていた。
そんな間があいていたにもかかわらず、新曲をつくっていなかった。これは、私の怠慢というわけではない。というのも、最近は、バンドで曲をつくるというときに、私は作詞だけをしているからである。それで二つほど歌詞はつくったが、それの作曲がまだできていない、というところである。
それでも、今回のライブは、新しい挑戦をしようと思った。それは、バンドの曲を弾き語りでやる、というものである。
「出店…」と「節分祭」と「博物館…」は、私の作詞で、作曲はそれぞれ佐伯さん、黒田君、佐伯さんである。これを弾き語りでやってみようと思ったのである。
なぜやろうかと思ったかというと、ひとつには、弾き語りをすることで自分の曲にしようと思ったのがある。人の作曲であると、なかなか自分のものにするのはむずかしい。自分の作詞作曲のものをバンドでやっても、自在に歌えるのであるが、人の作曲であるとそういうわけにはいかない。今の音を歌いながら次の音を探していたりする。それをなくすために、自分の身につけるために歌ってみたのである。
だから、というわけでもないが、これらの歌を歌う際は、ギターのコードをほとんど弾かずにおいた。声だけをほとんど独立で歌うようにした。ギターのコードの音の中に、声と一致するものをもとめて、安心をしないように努めたのである。
ギターをほとんど弾かないというのは、ほかにも、ただ声だけで表現したい、という欲望があった、ということもある。スタジオで練習する際に、ギターの音を鳴らして、その音量に合わせて声を出していると、身体の前に音を出そうとしていることに気づいたのである。ギターが向かう音の方向に声を出そうとしている。それは当たり前なのであるが、ギターの音をミュートすると、声が、身体の外ではなく、内の方で鳴らそうと、意識された。そのように声が身体の内でなるように、歌うことができるように、してみたのである。
歌詞の朗読、詩吟、お経を唱える、というようなところに、近いようなものなのかもしれない。これらはいずれも、「歌詞」というものを、表現するためのものである。歌詞をメロディに従属させるのではなく、メロディは歌詞を表現するためのものなのである。
ところで、自分の手を自分の胸に当てた際に、「触れている」と感じるか「触れられている」と感じるかは、そのときの心に左右される。触れている感覚に意識を持っていくことも、触れられている感覚に意識を持っていくこともできる。これと同じように、歌というものも、「能動的」か「受動的」かということは、意識によって変えることができる、と思う。
というのも、歌うということを、そのように「意識」しながら行う、ということが大切なのだ。ほんとうのところ、「意識」は歌わない。「意識」は聴いている。歌う私が、歌いながら、その歌う私とは別に、歌を聴いている私がいる。その聴く私が働いていることによって、観客は聴くことができる、のではないだろうか。そのような仮説を立てることもできる。
それにつづいて、「想像」についても、考えてみることができる。歌っている自分の歌を聴いていると、その歌詞から「想像」が生まれる。歌詞の「世界」について、それを「想像」しながら、その(歌詞を作った)当時のことを追体験しながら、歌う。これも、それができていることによって、観客にも、想像が惹起されるのではないか、という仮説を立てることができる。
とにもかくにも、歌っているのを自分で聴いていて、好きな歌詞だ、と思う。好きな歌詞を歌うことができていて満足である。聴く人々も、この歌詞を聞いて、もし想像を働かせていただくことができたなら、幸いである。
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