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2024年10月10日サブマリン弾き語り



0.セットリスト

 ①鹿が僕を見ている

 ②金木犀の匂いがする、不安のように

 ③花は泣かない

 ④スミレ

 MC~サブマリン一周年について、故郷~

 ⑤ブルーサルビアのにおい


1.6月以来のライブだった。


サブマリンでの弾き語りのライブであった。


弾き語りは6月以来。サブマリンの弾き語りは5月以来だった。四か月以上間が空いていたが、その間に、バンド活動をしていたから、体力や技術的に、鍛え直さなければならない、ということはなかった。


とはいえ、ライブに向けて、新曲をつくる、という面もあるので、6月以来の新曲発表ということになった。新曲については、また後で語るかもしれない。


弾き語りのライブのあとは、どっと疲れる。二日間は身体的にぐたーッとしていた。これを書いているのが、17日であり、一週間経ったのであるが、口内炎が二つできている。


2.身体一つで表現する。


身体一つで表現をする。舞台の上で歌うっていうのは、そういうことだ。けれども、たったそれだけのことだ。と、最近は思っている。


思い切りがよくなったというのか、あきらめがよくなったというのか、齢を取ったというのか。


ギター抱えて、舞台に出て、歌って、おしまい。


弾き語りのライブなんて、そんなもんである。それ以上でも、以下でもない。


「いい歌」なんて、客観的には、ない。そうじゃない。身体一つで、どん、である。


十年近く弾き語りのライブをしてきて、ライブの当日、「ああもうこれでいい」となる瞬間を、見つけることができるようになった。


3.ライブ前に腹を据える瞬間。


ライブをやりたてのころは、いくら練習しても、本番がうまくいくか「不安」だったものである。


けれども、いまはもう不安はない。不安はないということはないが、ある程度、心配をしつくしたところで、「よし、もう不安になるのはやめよう」、と決心することができるようになった。


もちろん「不安」は大事で、それは「本番にむけて準備をしたほうがいいんじゃないかしら?」という無意識のアラートである。私の感覚では、ライブの1か月前から薄く鳴っていて、一週間前で強く鳴る。このアラートは大事だと思っている。


昔はこのアラートを「ライブ前鬱」などと呼んでいたが、あまり病名をつけるものではない。それはサボるための言い草なのだ。


アラートが鳴ったら、それを止めるために、準備をする。それでオッケー。そうした準備をやり終わって、いよいよ当日になって、アラートが鳴っていたら、それはスヌーズ機能の誤りである。とっとと消してしまおう。「あとは、歌うだけ」。


4.舞台の上でしか発揮できない人格。


さて、今回言いたかったのは、身体一つで歌うこと、それは貴重なことだということだ。


スタジオで歌う練習をしていて、ふと思ったことがある。もし、仕事場で、急に大声で歌い出したとしたら、「三好がついに狂ったな」と思われるであろう。


歌を歌うのは、ステージ上でしかダメなのだ。それは、仕事場の三好ではないし、レストランで食事している三好ではないし、友達と散歩している三好ではない。歌っている三好は、舞台の上でしか存在しない。


舞台の上でしか発揮できない人格がある。


それを発揮すること。これは、バランスの良いことに違いない。


人はパンのみに生きるにあらず。


とキリストは言ったらしい。この言葉を、私は、ずいぶん長い間、働くことがいやなときの言い訳につかってきたように思うが、ご飯も食うだろう、という意味ではないということくらいはわかってきた。


5.サブマリン一周年月間、ライブハウスのありがたさ。


さて、サブマリンの一周年月間に呼んでもらった。MCでも話したとおり、去年の10月にワンマンライブをさせてもらった。なんとサブマリンのライブハウス史上初ワンマンライブである。このときに、持ち曲を全曲歌うことになった。それが自分にとってよい振り返りになった。自分を見直すきっかけになった。


そうして、自然と次は「バンドをしよう」と思うようになった。損得勘定はまったくなくて、本当に自然なことであった。


ライブは身体一つあればいい。けれども、そのライブをする場所がなくてはならない。ライブハウスを支えるスタッフの人々やお客さんがいてくれるからこそ、舞台が設定され、そこにライトが照らされ、マイクが伸ばされて、歌うことができる。そうして、その歌にまた、人が集まってくる。そういった循環なのだ。


ミュージシャンがライブハウスをつくり、ライブハウスがミュージシャンをつくる。


身体一つで歌う。といっても、家に一人で歌っていても、人格は変わらない。


歌う私は、ライブハウスという場所で、観客に作られている。


歌うのは「私」だが、鳴るのは「場所」である。歌う私は「ライブハウスという人格」なのだ。


6.新曲について


今回のライブでも、新曲を歌った。「あのころ」という題名にした。最初は「すみれ」としていた。すみれの花が出て来るから、もしかしたら「すみれ」で定着するかもしれない。この歌詞は4月に旅をしたときの経験を書いたものだ。歌詞自体は5月にはできていた。バンドメンバーに歌詞を渡していたが、他の歌詞に曲がついて、これにはつかなかったので、私が自分で曲をつけてみた。


「これは自分で曲つけなきゃなあ」とうっすらと思ってはいた。それはこの歌が、あまりに自分の過去をそのまま歌いすぎでいるし、最後の歌詞も、自分の人生の決意を表明しているからだ。歌詞を全文載せておこう。


 

山の道を歩いていたら すみれの花を見つけた

黒い土の上にぽつりと 薄紫の花が咲いていた

 

立ち止まってこの花を じっと見つめていたら

離れた所にもおんなじ すみれの花を見つけた

 

山の道の途中にあった 神社の鳥居をくぐると

四月の光に照らされて しだれ桜が咲いていた

 

参拝客の頭に花びらが 落ちるのを見ていたら

私の後ろにたくさんの 人がすでに並んでいた

 

あれから三十年経って 私はまた迷子になった

けれども本当は違って 私は逃げただけなのだ

 

山の道を下りていたら 昔のことを思い出した

父と兄と山登りに来て 私は途中で嫌になった

 

智弘はまだ登れるなと 父が兄だけに話すから

私は一人で泣きながら 山の道を下りていった

 

山の道を下りる途中で お寺さんに足を運んだ  

入り口はひろい石畳で 左端に時計台があった

 

その時計には長い針も 短い針もついておらず

刻まれた十二本の線が 円盤の上に浮いていた

 

あれから三十年経って 私はまた迷子になった

けれども本当は違って 私は逃げただけなのだ

 

山の道を歩いていたら すみれの花を見つけた

黒い土の上にぽつりと 薄紫の花が咲いていた

 

立ち止まってこの花を じっと見つめていたら

あの人のことが好きだ ということが分かった



歌詞中の「智弘」は、兄の本名である。あまり兄の本名が出て来る歌もあるまい。三好さんの歌って、よく「地名」が出てきますね、と言われることがある。「桂川」とか、「太秦天神川駅」とか、「川端通り」とか。これは、身体を持った個人が実際に経験したことを歌にする、という信念から来ている。というか、私は自分が経験したことしか歌にできない。けれども、「桂川」などは、だれもが知っていて、経験したことがあるか、経験できることだ。


誰も「智弘」を経験できるまい。


そんなことはないだろう。きっと、誰もがそれぞれの「智弘」を持っているはずだ。


もし舞台に立ったとしたら、あなたもきっと「迷子の弟」になれる。のかな?

 
 
 

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