2024年3月29日西院SUBMARINE
w/サンポーズ/高山燦基/岩出拓十郎
今年初めての弾き語りのライブであった。去年の大みそか以来、バンドの活動が続いていて、弾き語りでライブをする機会が減ったのである。
こうして弾き語りをすることができてよかったと思っている。弾き語りとバンド活動というものは、ちがうものである。一人で舞台に立つということで、ひりひりとしたものを感じるのである。
とはいえ、バンドをやっていることが、弾き語りのライブに大きな影響を与えている、ということが発覚したライブであった。どんな影響かというと、まずはシンプルに、声がよくでる、ということだ。
バンドサウンドの上に、声を乗せるためには、大きい声を出さないといけない。ただ大きければいい、ということではないが、届くような声を出さないといけない。その訓練がなされている。バンドの練習はおよそ週に一回しているので、発声練習をその度にしているということになっている。
声がよくでた。けれど、自らの意志として、声をよく出したかったのだ、ということができる。大声で歌うことが、喜びである、と感じる今日この頃なのである。
去年の3月にネガポジでライブをしたと思う。そのときに、まったく声が出なかった、ということがあった。それ以来、発声練習を習慣化してきた。
いまでは、声が出るということは、前提となっていて、そのうえで、その声でどのように遊ぶか、ということができるようになってきている。例えば、声を出すときに、頭蓋骨の後部に、音を背もたれさせて響かせる、とかいうような感覚があったりする。やたらめったに、大声を出すのではない。声を貼り付けるというイメージがある。波長はあって、それを一定の量に保って出す、とか、ビジュアル化していることもある。あえて波をつけて揺らすとか。他にも、あえて地声にして音程をずらすとか。いろんな遊びができるようになってきたと思う。
新曲の「花は泣かない」が歌いあげる歌だったというのも大きい。バンドを始めてから、詞を単独で作って、それをメンバーに作曲してもらうことが続いていた。その前から、自分でも、詞先、ということをしてきた。この新曲は、久しぶりに歌いながら作ったのである。ギターを持って声に出しながら、声をたよりに、そこに歌詞を載せていった。だから、この新曲は、歌うことの喜びの歌である。
歌いながら曲を作るということはどういうことであろうか。それは、曲でもなく、詞でもなく、歌なのである。歌としてあり、歌として残り、歌として消えていくものだ。
歌うときに、出て来る感情を、歌の感情として歌い、歌い終わったときに、その感情はもう無くなっている。
歌うときに、私は歌う私になっており、歌い終わったときには、歌う私はいなくなっている。
そのようなことを、今回のライブでは、つよく感じた。フリートークをしている私と、歌っている私は、同じではない。舞台に立ち、歌っている私は、詞を書いている私でもない。そうならば、歌っている私が、歌っている私のために、歌をつくるのがよろしいのではないだろうか。そして、それはきっとよいことである。
そのようなことを考えた。
歌には歌の場所がある、と。