2025年3月29日(土)大阪ハードレイン
- 三好真弘
- 5月13日
- 読了時間: 2分
2025年3月29日(土)大阪ハードレイン
『素描』w/ウエダシンカイ / 田中宏和 / 中島光一朗
土曜日の弾き語りライブというのは、けっこう珍しい。リハーサル後にゆっくりと時間をすごすのは、久しぶりのことだったかもしれない。
大阪の天満橋商店街の喫茶店で、一時間以上ゆっくりとすごすことができた。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読み返していて、とてもおもしろい。
小説を読むのが、もう数年ぶりのことである。紙の本に印刷されてある文字に、意識を集中させて、滑らせていくことが、身体にとって心地よい。
前回のライブが同じ週にあったこともあって、準備万端で臨むことができた。
バンドの活動を行うことで、弾き語りライブの数が減ったが、一人で舞台に立って、一人で歌うということの、自分の整え方については、実はバンドをやることと、それほど変わりがない。
自分一人が自立しなければ、バンドも成立しない。それは依存ではないのである。
ドストエフスキーの小説のことを、ポリフォニーと呼ぶのかは分からない。けれども、主人公が一人ではなく、複数の人が、別々に、各々の運命を生きており、それらが交錯することで、物語が編まれていく、というのは確かなようである。
自分一人の心理的な物語だけで、歌は自立的に成立しえない。このことも確かなようである。
上中下三巻の歌を作ることは不可能であるが、私「個人」の思想ではなく、歌の「世界」というものが、ある種の客観性を持って、成り立つようになればいい、というのが私の創作の理想ではある。
ライブの話だった。ハードレインの弾き語りは、5年以上ぶりだったと思う。
他の方々の演奏を聴きながら、壁の「あの」鉄の錆のような、ハードレイン独特の意匠に目をやると、ライブハウスが長くあることのありがたみを感じた。ここに携わる人が、たくさんいてくれるおかげであるということ、そのような縁をありがたく感じた瞬間があった。
ライブは、練習したことの「発表」ではなく、ライブハウスという場所で、「発生」するものだと、つくづく思う。
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