古墳について
- 三好真弘
- 5月17日
- 読了時間: 3分
なにかを書こうと思う。
何を書こうと決めてもいないのであるけれど。
なにかを書こうと思う。
なにかを書かないと落ち着かないのである。
それはなぜであろうか。映画の観すぎかな。
ここのところ毎日映画を観ている。それでインプットが多すぎて、なにか排出したいのかしらん。
けれども映画については、観たものすべてに、一応感想を書いてはいる。
では何を書こうか。
歴史について書こうか。歴史について語りたい。
古墳について語りたい。みんな古墳について興味あるだろうか。ないだろうな。古墳。
私は堺市生まれなので、古墳。語りたいのである。
そういいわけをする。古墳について語るときはね。
でも古墳なんて日本中にあるのだから、みんな古墳を語るいいわけを持っているはずなんだけど。
古墳は、コンビニエンスストアよりも多い。
古墳は、コンビニエンスストアと歯医者を足した数ほどある。
ああ古墳について語りたい。
どうして前方後円墳ができたのか。それは日本の統一王朝ができたことを示している。大和王権である。
前方後円墳という同じ形の墓が、全国一斉に同時期に広まったから、そう言われている。
これがどうして魏の時代だったのか。ローマもゲルマン民族の移動で混乱していた。
魏は三国志の時代。漢王朝の後。
ところで、古墳は、灌漑事業と関わりがある。大阪湾は難波まで海だったが、これを大規模な土木事業を行った。
堺市に巨大墳墓が多いでしょ。海に近いから。
当時、大陸から土木技術を持った外国人が渡ってきたと言われる。ローマの混乱と三国志の混乱が関係しているにちがいないのだけれど。
そこのところ。世界史と日本史を越境する物語を聞きたいなあと思っています。
土木技術を持って日本に入って来た外国人は、秦氏と名乗った。
今も京都の太秦に名を残している。観光客の溢れる嵐山の渡月橋を大規模に工事したのも彼らの技術であったそうだ。
彼らは大阪湾の灌漑事業にも関わり、土木事業で大量の泥が発生した。それをモニュメントとし、弔いにもちいることになった。これが近畿地方にのこる巨大墳墓である。
これを私はおもしろいと思う。
なんでおもしろいと思うのかな。
やっぱり堺市出身だから、ということになるのかしらん。
少年時代に横を自転車で通っていた仁徳天皇陵。なんでこんなに大きいんや。と疑問であった。
それが教科書的には「権力の誇示」と説明される。
少年には納得がいかない。死んだ人に権力も糞もないだろうに。
巨大な墳墓は、その人の威厳を象徴的に表しているのであって、威厳の実行力はないのである。
死んだ人の墓という点では、当時の人も現代の三好少年にとっても、変わらない。
絵画を例に語ろうと思ったが、上手くいくかわからないのでやめよう。
話の切り口を変えよう。
高校生のときに、自転車で古墳のそばを通るときに、ラブホテルが多かったかったこと。
あと、交通にとって、「むっちゃ邪魔」なこと。
現代の社会にとって、むっちゃ邪魔なのである。そのことで古墳は「古」でありつづけているのある。
そして、現代社会の方を「動」にする。古墳を中心に、現代社会のほうを、動かす。古墳の側に立つとそう感じる。
ここで現代は「過ぎ去る」のであり、現代社会は、古墳にとって、とっくに「古」なのである。
古墳は百年後も残る。でも少年は百年後に消えている。
古墳に惹かれるのは、端的に言って、自分の死を知れるからである。
「私の生よりもずっと彼は長いこと死んでいる」。
その「彼」とはいったい誰なのか。
そのことを考え出すと、とっくに私は死んでいる、ということに驚くのである。
ハイロウズというバンドの真島昌利が、「百年たったらうんこも残らない。ニューヨーク。」と歌っている。
うんこが消え去っても、墳墓は残るのだ。大阪の場合。
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