教会の写真を部屋に飾る
- 三好真弘
- 2024年11月21日
- 読了時間: 5分

20241121
何も考えずに書き始めよう。何も考えずに書き始めるのが好きなのだ。そうして、何も考えずに書きつづけていく。そうして、何も考えずに書きつづけていくのが好きなのだ。
今日はとくに何もなかったが、何もなかったなりに、何かを書き始めてみるのだが、何も出てこないのである。これは、よい一日だったということではないか、と思うのだが、今これを書いているのは、まだ昼の三時なので、まだこれから起こるのかもしれない。
教会の写真が、カメラのキタムラから届いた。
教会の写真といわれても、なにのことだかわからないだろう。このまえ、教会に行く機会があったのだ。そこで写真を撮って、カメラのキタムラのネットプリントを利用して、それが本日、いまさっき届いたのだ。
その写真を壁に飾った。写真をかざるのに、額縁を買わないといけないけれど、これが結構高価なのである。けれども、カメラのキタムラのサービスに、写真を発泡スチロールのような軽い素材で、分厚く加工してもらえる。これが500円ほどでできる。
届いてすぐに、壁にかざることができるのだ。これが気に入っている。
写真の説明が済んだ。次は、教会の説明。
教会に行ったのは、京都モダン建築祭というものが、11月初旬に、京都で行われていたからだ。京都にある明治大正期に建てられた建物に、パスポートを購入すると、入ることができる。それで、京都にある三つの教会に入ることができた。
人生で初めて教会に入った、と思う。実際は、友人の結婚式の挙式で、行ったとは思うけれど、式場ではなく、街にある教会に行ったのは初めてだった。
中でも、聖アグネス教会に入れたのはうれしかった。京都御所の西南にある教会で、この前を通ったことがある人は、みんな気になる建物であろう。
この協会は、平安女学院のものである。ものであるという言い方も変だが、教会の紹介や、パイプオルガンの演奏を、現役の女学生がしてくれた。それが「生きた」建物としての、「温かさ」を感じさせてくれた。
昼は温かく、夜は寒い季節。ちょうど私が訪れたのは16時くらいで、肌寒くなってきたところに、教会の内部は、ストーブが効いていて、実際に温かかった。
教会のあの横並びの椅子に座り、しばらくぼーっとすることができた。女学生がパイプオルガンを奏でる。その演奏が時々間違える。その間違えたということも、神様の思し召しなのだと感じた。
私は前から二番目のベンチに座っていて、ふりかえると、たくさんの人々がベンチに座ってゆっくりしていた。建築を見学して勉強するという以上のことを感じていたのだと思う。そこに、癒しがあって、わざわざ言葉にしないけれど、きっと宗教心というものに、触れることができたのだ、と思う。
さて、その次の日の朝、それは日曜日だったが、銭湯の清掃の仕事が、私にはあった。
女湯のサウナの床をデッキブラシで磨きながら、昨日の教会がよかったなあと振り返っていた。何もないがらんとした建物というものが好きだ。何もないということが好きなのだ。私は小、中、高とバスケをしていたが、体育館という建物も好きだ。特に誰もいない体育館が、好きだ。また、この銭湯というのも、いいものだ、と思った。誰も入浴していない日曜日の朝の銭湯。これもよい。教会みたいなものだな。
そのようなことを考えながら、デッキブラシでサウナの床を磨いていると、その床が、「自分の皮膚」のように感じられた。磨かれている床を自分の皮膚のようにリアルに「気持ちよく」感じたのである。そして、床が「皮膚」のように感じられ、次の瞬間に私は「象の皮膚」だと思った。サウナの床は、象の背中で、そこに私は乗りながら、象を磨いている。そのように私は心で表現し、全身が電気でびりびりとしびれた。
日本福音ルーテル賀茂川協会の玄関の端に、「隅の石」というのが置いてあって、教会の人が説明をしてくれた。教会を建てる際に、土台の隅に神聖な箱を入れておくのだそうだ。その箱の中身は、詳しくは誰にもわからないが、おそらく「聖書」が入れてある。そして、それは「キリストの肉」だ、ということが信じられている、と話してくれた。
なるほど、銭湯はキリストの肉体でできているのか、とサウナ掃除を終えて、脱衣所の椅子に座っているときに、妙に納得がいってしまった。
内が外で、外が内なのだ。
そのあと、湯船を掃除するときも、その細かい5センチ四方のタイルが、キリストの歯並びのように感じて、口を開けたキリストの歯を、私はごしごしと磨いてあげたのだった。
私は、不思議なことを書いているのだろうか、そうではあるまい。私たちが触れているものはすべて、たんに外にあるのではなく、深く内にあるものなのだ。
教会に行ってから、しばらく讃美歌を聞いている。クリスマスに向かっていく季節にちょうど雰囲気も合っていてよい。
モダン建築は、明治以降に西洋の建築形式を取り入れたものだが、音楽の方でも、日本は西洋の音楽形式を取り入れた。そこで、讃美歌の音楽を模倣した、ということで、建築とも通じているところがあると思う。
讃美歌を聴くと、文科省唱歌で、似ているものがあるなあ、と思う。
教会の建築を、さすがに家の建築に、そのまま取り入れるということはできないだろう。けれども、音楽は、讃美歌の形式をそのまま取り入れることができる。それは不思議なことではないだろうか。
では、讃美歌のどこに「キリスト教らしさ」はあるのだろうか。
そのようなことを考えたりして、ほんとうは何も考えていないのだが、讃美歌を聴いている。ちなみに私が特に好きなのは「まきびとひつじを」である。
それでは、突然に終わる、また。
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