経験と貧困
- 三好真弘
- 2024年12月3日
- 読了時間: 4分
20241203
何かを書こう。何を書くかを考えていないが、何かを書こう。何かを書きたいと思ったのである。何かをだから、書き始めているのである。
レヴィナスとベンヤミンのことが、気になっている。レヴィナスもベンヤミンも、あまり知らなかったのだが。
このまえ、本屋に行った。京都の河原町にある、丸善である。京都で、一番大きな本屋さんだと思う。そこで、メモ帳を片手に、歩き回った。メモ帳に、気になる著名人を書いていくのである。ひたすら、気になったら、書く。
岩波文庫のところ、とかが、一番著名人が多いし、分類もされていて、便利である。意外性はないけれど、「気になる」という人については、すぐに出会うことができる。
中江兆民、内村鑑三、森鴎外、泉鏡花、何でもいいが、ジョンロック、ハーバマス、西郷隆盛、紀貫之。ひたすら、気になったら、書いていく。本は手にとらない。
それで、帰って、料理や家事をしながら、youtubeで、その人名を検索する。もしくは、「人名 生涯」と検索する。そうすると、10分以内の簡単な説明が出て来る。それで、とりあえず聞いてみる。
意外なことに、中江兆民は、その個人での説明の動画がなかった。福沢諭吉とセットで語られていた。それで、結局、中江兆民って、何をした人なのか、分からない。無神論者だったということはわかったが、それ以上興味があるような、人でもない。
泉鏡花も、金沢出身だということはわかった。あまり生涯についての説明動画もなく、なぜか美輪明宏が、泉鏡花を語っている動画が、一番上に来る。
そんなこんなで、浅く広く、知識を得ていくのだが、結局、いろんな名前を、メモ帳に書いていて、それを眺めていくごとに、興味がある人というのは、限られてくる。やっぱこの人が気になる、というのが、直観でわかる。私は、直観までに、時間がかかるのである。
それで、レヴィナスだ。ということになって、これは家の本棚にある『全体性と無限』を取り出して読み出した。序文を読んで、内容が、やっとわかった気がした。
「やっと」と書いたのは、これを読むのが、初めてではないからである。初めて読んだのは、学生のころだろう。『全体性と無限』ではなく、当時文庫で唯一手に入った『存在の彼方へ』である。なんとも魅力的な題名であるが、これはまったく、分からなかった。
それで、24歳くらいのとき、保育所で働きだしてから、当時岩波文庫から新訳で出た『全体性と無限』を読んだ。読むと、当時も「わかった」気がしたものである。それでは、今回読んで「わかった」気がした、というのは、どういうことか。前回もわかって、今回もわかった、というのは、どういうことか。
この本は、レヴィナスの著作というのは、読む者の経験を統合するように、なっている。本を読むことが、教養の蓄積をもたらすのではなく、経験を深めるようにするのである。
24歳で、働き始めたことによって、自分が社会的経験を積んだことによって、『全体性と無限』が理解できるようになった、と思っていた。けれども、おそらくそうではなく、事態は逆であって、自分の社会的な経験が、この本を読むことで、理解されるのである。経験が整っていく。そのように感じる。
ベンヤミンの「経験と貧困」というエッセーを、烏丸の大垣書店で立ち読みした。教養はあるが、経験と接続できない、そういった貧困状態に、われわれはある、と20世紀前半に述べてあった。
その貧困が、社会を何に向かわせて、著者自身をどのような運命に導いたかは、他人事ではないような気が、私はしている。
コロナによる、荒廃した土地から、きちんと経験に基づいて、しっかりしたものを作っていかないといけない。すごく抽象的な言葉でしかないのであるが、そういうことを思い始めている。
これは齢のせいもあると思うけれど、あらかじめあったルールが壊れてしまっていて、そこから自分でルールを作っていかなければならない。そのときに、何に従うか、何を行うかを、いちいち自分で決めなければならない。
葬式だって、われわれは、しないだろう。するだろうか、親の葬式は、あげるだろうが、自分の葬式を挙げるだろうか。そのような、決まりは全くなくなっているだろう。
私は、今から、自分の葬式は、どのようにするかを、考えている。自分のお墓をどうするかを、考えている。それは、まだどのようにするか、まったく決まっていない。それは、「きちんと経験に基づいて、しっかりしたものを作っていかないといけない」という、これからの生き方の態度と全く同じものである。
死に方を決めることは、生き方をきめることだ。
死に方を決めることは、宗教的になることであろう。実家の宗派の葬式で行く、というのは、無宗教ではなく、無関心である。われわれは、もう無関心ではいられなくなる、ということだということで、現代のカルト宗教の問題は、ここらへんにあると私はにらんでいる。
レヴィナスは、ユダヤ教徒であったが、齢を重ねるにつれて、敬虔になっていき、晩年は、高速道路の途中でとまって、祈りの時間をつくるほどになったという。
その話が、今読んでいる本で、心に残ったので、書き記しておいた。
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