不安について
- 三好真弘
- 2024年12月7日
- 読了時間: 3分
20241207
何かを書こう。何かを書こうと思っている。何かを書きたいと思っている。何かを書いている。何を書いているのだろう。そのことよりも、なぜ、書いているのであろう。なぜ、書くのであろう。なぜ、書きたいのだろう。
書きたい。書くことは、書かれることを、持っているわけではなく、書かれるものを、私を通して、書かれるのである。それは、私を通る。私は、穴である。私は、管である。言葉は、水である。
不安、ということを考える。考えるわけではないが、感じている。生まれてこのかた、感じていると思う。生まれてから、「このかた」と呼ばれるときに、不安というものがあった。
不安というものを感じたときに、私は目覚めた。不安という気分とともに、私の人生の記憶は開始する。
不安に目を開いたとき、人生は視界に広がったのだ。人生は、母ではなかった。いまでも、母ではない。
世界は、やすらぐことがない。
不安を消すために、きづいたら、そのために、苦労してきたような気がする。不安を消すためなのか、それを忘れるためなのか、はたまた逃れるためなのか。わからないけれど。
歌うことは、不安から逃れることだった。歌っているときは、不安を感じることがない。歌っているときは、いっとき、不安を忘れることができる。
瞑想をすることも、不安を消すために行うのだ。そのときは、消える。そして、しばらくすると、また不安が現れる。
けれども、不安というものが、本当に、消すべきものなのか。克服すべきものなのかどうか、それ自体に、疑問を持つようになってきた。それは、いいことではないのか。いい、というのは変だけれど、それは、当たり前なものなのではないか。必要なものなのではないか。
哲学者のレヴィナスを読んでいて、彼が、不安というものを、不安という言葉は使っていないが、そもそもあるということを、論じたのではないか。それは、分からないが、そのような理解を、私はしている。レヴィナスを読むことを通して、私はそのような自分の、自分自身の理解をしようとしている。
すなわち、安定した自我というものは、まやかしで、つねに、他なるものに、開いている、不安定なものが、自我なのである。他へと開いていない自我などは、ない。そもそも、自我という言葉を、つかわなくてもよい。
人は一人で生きられない。社会があって初めて人は生きられる。このことは、説教ではない。だから、社会のお役に立ちなさい、というわけではない。そもそも、社会のために生きずにはいられないのだ。
不安とは、自我からの言葉にすぎない。それは、社会の安定に他ならない。行動するとき、良心は語らない。
そのようなことを考えている。
プライベートと、社会人の時間を、分けて考えていたりした。それが、当然だと思っていた。それが、当然だと思うようになったのはいつからであろう。
高校生のころからか。幼稚園のころからか。やはり、不安、というもののうちに、プライベートの秘密はあるような気がしている。内面性というもの、秘匿性というものは、不安によって形づくられている。けれども、不安というのは、「話してみる」と、案外消えてしまうものである。
プライベートとは、「黙る」ことであり、社会に組み込まれることは、「語る」ことだ。思考は「言いたかった」ことであり、もしくは「言ってみたい」ことである。前者は、後悔であり、後者は不安である。歌うことは、この時間のズレを、時間のままに、取り戻そうとする。後悔や不安を、絶対的に過去のものとする。言いたかったことを、その内容で直接に言うのではなく、言いたかったのだ、ということを、言うのである。
というわけで、不安というのもは、わるくないのだ、ということを、考えている。不安になって、きょろきょろと、周りを見なくてもよい。それは、状態であって、他からの要請である。それならば、その声に耳を傾けて、自分のやるべきことを、やろうではないか。
私は、書きたいし、語りたい。耳を傾け、うなずき、反論しない。行動は語られるであろう。不安は見えるであろう。
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