肺をつかまれるような幸せな感覚 20241119
- 三好真弘
- 2024年11月19日
- 読了時間: 4分
何か文章を書こう。何を書きたいでもないし、何を書こうというつもりもない。散歩のように、目的もなく、文章を書いてみよう。
最近はブログに読書の感想や、映画の感想を書いてみた。少し気合を入れて書いてみたのだが、そのあとが続かない。また長い文章を、きちんと書いてみようと思って、本を数冊読んでいたが、なんだか義務になってしまったようで、それはつまらないと、やめてしまった。
だから、こうして何も考えずに、書きつづけよう。ひたすら、自由に、書き直しもなく、書いていこう。意味もなく。意味もなく、うれしくなってくる。身体の後ろ側が気持ちよくなってくる。
背中の後ろ、肺を後ろからてのひらで包まれるように、気持ちよくなる、という経験を、皆がしているのかしら、と疑問になるのだが、どうなのだろうか。身体感覚というものは、他の人も本当に感じているのかどうか、よくわからない。
「筋肉痛」という言葉で指す身体感覚が、これであると分かったときに、私は「筋肉痛になったことある!」と叫んだことがある。小学校5年生くらいのときで、テレビで『ためしてガッテン』という番組が筋肉痛特集をしていたのである。
小学5年の子どもが筋肉痛になったことがあると大声で表明したことにたいして、両親は笑っていたが、私は、子どもでも筋肉痛になると主張したかったわけではない。この身体感覚が「筋肉痛」という名で呼ばれていることを発見した驚きを伝えたかったのだ。
けれども、実際に、「この」筋肉痛が、他の人の筋肉痛であるかは、分からないものなのかもしれない。「痛さ」というものは、分からないのかもしれない。痛みは他の人と共有はできない。この痛みの痛さというものは、などということを、考えたいために書き始めたのではない。
そうだ、肺の後ろあたりに触れられているような感覚のことであった。これを感じる人がいるのであろうか。また、筋肉痛のように、名前がついているのであろうか。
なお、この肺の後ろの感覚は、幸せな感覚である。瞑想をしたあとや、詩を書いている時などの、リラックスしている状態のときによくおこる。
ポリヴェーガル理論というものを聞いたことがある。神経理論であるが、交感神経と、副交感神経が、動物にはあり、人間にもあるが、人間はこの二つの神経に加えて、もうひとつ神経があるということだ。それがポリヴェーガル神経というものだ。ポリヴェーガルとは「迷走」というほどの意味ではなかったかと思う。
交感神経は興奮、副交感神経はシャットダウン。戦うか死んだふりをするか、という生物の生存戦略のために使われる神経だ。これに加えて、人間には、人同士でコミュニケーションをすることができる。そのときに親愛なる感情を用いる。そのときに使用するのが、ポリヴェーガル神経だ。
リラックスしているとき、われわれは、ポリヴェーガル神経を使っているらしい。そして、この神経は、肺にもつながっているらしいので、それが私に気持ちのよい感覚を与えているのではないかとにらんでいる。
さて、この感覚であるが、実は子どものときからあって、これに対して、わたしは、矛盾するようであるが「不愉快」な感覚を得ることがあった。
肺のあたりが、「むずむず」すると感じて、これが、衣服のこすれによって生じていると思って、眠れなくなったのである。パジャマの繊維が皮膚に触れて起こっているのではないかと感じたのだ。
小学校低学年の事だったと思う。深夜0時になっても眠れないので、泣きながら母にうったえたのを覚えている。翌日からあたらしい寝間着に着替えて、眠ることができるようになった。これはたった一晩の出来事であったが、もう一生このまま眠れないのではないかと不安になったのでよく覚えている。
それから数十年経って、どうしたことか、またこの感覚が復活してきた。最近は、この感覚が、よくおこる。
いまはもう、この感覚になって、こしょばくなっても、ひとりでへらへらと笑っている。散歩中などよく気持ちよくなるから、ひとりでけらけら笑いながら歩いている。そんな感覚って、みんなないのかな。
そんなことをあたまの片隅において生活していたら、ホームレスの人が、街路を歩いているのをみつけた。彼はゆーっくりと一歩一歩歩いている。それで、にこにことしている。それで、私はわかったのだが、彼はきっと肺が気持ちいいに違いないのだ。
そして、彼は、その感覚に、名前をつけるつもりなどないだろう。私もまた、そのつもりがない。そうして、布団のなかで、もう不安になることもない。一生布団のなかで、肺をこしょばされていても、ちっともかまわない。
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